聞き書き
画廊たべ「絵のある茶の間」物語

里村洋子
1999年9月7日発行
編集・発行:聞き書き 画廊たべ「絵のある茶の間」物語刊行委員会


目次

・東掘前通三番町界隈
・尋常小学校時代
・新潟尋常高等小学校高等科時代
・新潟貯蓄銀行給仕時代
・佐藤清三郎との交流
・白根へ転勤となる
・初めての佐藤哲三小品展と
  「柿を持てる女」
・終戦前後
・「白根民衆文庫」のこと
・画家 佐藤哲三との出会い
・組合文化運動
・再び組合文化運動―燕支店時代
・佐藤哲三との別れ
・詩人 石垣りん氏との交流
・銀行退職前後
・「絵を見る話の会」開設と
  佐藤清三郎遺作展
・佐藤哲三展
・山上嘉吉展
・童画展と東本つね展
・上野誠版画展と、
 「版画二つのメッセージ」
  上野誠・上野遒による版画展
・高良真木展と浜田糸衛・
  高良真木両氏を囲む会について
・細野稔人展
・本間吉郎展
・長谷川正巳・建 父子展
・高見修司展
・山本昌子遺作展と
  山本緑ピアノリサイタル
・荒木石三展
・小川龍彦と創作版画展
・特集号 小熊金之助

・消えない場所 大倉宏
・参考資料
・「画廊たべ」個展・
 展示会の足跡とパンフレット「絵」目次


里村洋子(さとむら ようこ)
1946年生まれ。エッセイスト。農民文学会員。第34回農民文学賞受賞。阿賀野川え〜とこだプロジェクトの推進委員。
著書に『福耳を持った男の話』(越書房)、『聞き書き画廊たべ「絵のある茶の間」物語』(刊行委員会)、『小泉和子編「ちゃぶ台の昭和」』(河出書房新社)、『小泉和子編「昭和のキモノ─和服が普段着だったころ」』(河出書房新社)、『動き出す山古志の衆』(アートヴィレッジ)、『渡辺参治さんの聞き書き「安田の唄の参ちゃん」』(冥土のみやげ企画社)
新潟市(旧豊栄市)在住。
はじめに   里村洋子

 「画廊たべ」に初めてお邪魔したのは1991年4月、新潟県新発田市にある西公園の桜が満開の時であった。「画廊たべ」は、知らなければ通りすぎてしまいそうな普通の民家で、居間、茶の間、床の間が展示スペースだった。奥の部屋には囲炉裏が切られ、絵を見終わった後は囲炉裏端でお茶をいただきながら、居合わせた人たちといろいろなお話をするのも画廊を訪ねる楽しみの一つだった。
 「絵のある茶の間」―そんな雰囲気がぴったりの画廊であった。
 友人の案内で初めてお訪ねして以来、この「絵のある茶の間」の雰囲気がすっかり気に入り、展覧会の無い時でもたびたび伺うようになった。そして絵や画家についての他に、明治生まれの田部直枝さん(男性です。念のため)が、かくしゃくとして画廊経営をされる、そのご自身のことを知りたくて、囲炉裏端で子どもが昔話をせがむように私は、これまでの「みちのり」についてのお話をしていただいた。田部さんは時折、鉄瓶で沸かしたお湯でお茶を照れながら、思い出した時に思い出したことをという感じで、特に系統だてない記憶の断片をゆっくり私の前に並べてくださった。それを私はノートに書き続けた。
 田部さんは銀行員であった。敗戦の翌年、その銀行の白根支店勤務時代に「白根民衆文庫」を開設した。本の貸し出しの他、さまざまな講座、研究会、座談会、音楽会、展覧会などを開催して、戦後の若い人たちの知識や文化への渇望に応えた。
 銀行時代に田部さんはまた、画家佐藤哲三、銀行の同僚で多くの素描を描いた佐藤清三郎と交流を持った。二人の佐藤との出会いと民衆文庫活動が原点となり、銀行退職後に画廊を開いた。田部さん67歳の新たな出発であった。
 「画廊たべ」ではこの二人の佐藤をはじめ、山上嘉吉、上野誠、細野稔人、本間吉郎、東本つね、高良真木など、田部さんが敬愛する作家の個展を中心とした企画展が年2、3回のペースで開かれ、画廊を訪れた人の感想文で構成する画廊通信「絵」も発行された。しかし1995年8月15日、50回目の敗戦の日に、23年間続いた画廊は、不慮の火災で焼失してしまった。
 田部さんは現在、見附市にお住まいの次女、みどりさんの婚家先に仮寓しながら、画廊通信「絵」の発行を続けておられる。その見附へ、美術評論家の大倉宏さんと、長い間画廊たべを手伝ってこられた明星敏江さんの三人で、月に一回、「系統だった」聞き書きに通い始めた。一人の画廊主の生き方と地方におけるミニ画廊の意義をまとめておきたいと思ったからだった。聞き書きははじめ、ゆるゆると続いた。田部さんは、「一つ思い出すと次々に思い出されてきましてね。結構、いい張り合いになっています」と私たちを迎えて下さったが、段々、「このごろ言葉がすーっと逃げていってしまうんですよ」と言われるようになり、あせった私は大倉さん、明星さんをおいてけぼりにして、見附に通った。
 こんな風にしてまとめた前半は銀行員としての、後半は画廊人としての歩みという構成にしたが、画廊人としての田部さんのお話はいつも、画商および絵画論というより、絵と人との結びつき、人と人との結びつきの愉しさや意外性の空間に入りこんでいた。田部さんは絵もお好きだが、それ以上に人との対話も大切にされ、画廊を誰かが訪ねてくれるのと、「絵」に書簡が寄せられるのを心待ちにしておられた。聞き書き後半の、言葉が逃げていってしまった分は、この「絵」に負うところが多い。
 聞き書きはワープロで打って回覧の予定だったが、田部さんのお勧めもあり、本の形にすることにした。「絵」からの引用を快く承諾された方々と、まとめの相談にのっていただいた多くの方々、出版にあたり無理難題を聞いてくださった有限会社「風」、総合印刷「スタッフ ラン」にとても感謝している。田部さんの思いのどれほどを文字にできたか自信はないが、一人でも多くの方に、画廊たべのことを知ってもらえたらと願っている。


絵のある茶の間 「画廊たべ」
 2003年3月2日に田部直枝さんが97歳で亡くなられました。1972(昭和48)年から、95(平成7)年夏まで、新発田市西園町のご自宅の一画を改装して「画廊たべ」を開いて沢山の企画展を開催されました。展覧会では奥のお住いの部分まで開放されることも多く、床の間と囲炉裏のある部屋で、庭の緑や銀屏風の壁に飾られた油絵を眺めながら、田部さんに淹れていただいたお茶で、ゆったりした一時を過ごされた方も多いはず。日本家屋と画廊という今もなお異質な空間を、ひとつのものとしてさりげなく示して下さった心に残る画廊でした。


1995年10月2日 新潟日報
1995 夏の新潟 3つの風景  無二の空間の消失

大倉宏(美術評論家)

 
 8月15日、新発田市の「画廊たべ」が火事で焼けた。画廊主田部直枝氏は幸いご無事だったが、画廊にあった多くの本や絵画のほとんどを焼失。その中に田部さんの畏友小島一弥氏(故人)の、遺族から送られてきたばかりの蔵書もあった。
 「画廊たべ」誕生のひとつの遠いきっかけが、この小島氏蔵書だった。戦時中、小島さんは新潟空襲を避け社会科学関係書や文芸書など多数を、白根の田部宅へ疎開させた。敗戦の翌年、田部さんは小島さんの了承を得、その蔵書に自身の本を加えて有志とともに「白根民衆文庫」を開設する。本の貸し出しのほか、さまざまな講座、研究会、座談会、音楽会、展覧会などを開催。戦後の若い人々の知識や文化への渇望に応えた。
 9号まで発行された文庫の機関誌には佐藤清三郎追悼特集もあった。佐藤は田部さんの同僚の銀行員で、新潟市中の光景を多数の素描に残した無名画家。敗戦目前に横須賀で戦病死した。
 佐藤哲三と知り合ったのもこの民衆文庫時代である。哲三が敗戦後の開放的な空気の中で、社会的活動に挺身していたころ。やがて画家が作画に復帰すると、田部さんは作品頒布会を組織し、東京での往時の栄光を失った画家が、蒲原平野の風景の数々の傑作を残して逝く、最後の数年の生活を援けた。
                  ◇
 銀行退職直前に田部さんは新発田に移住する。67歳の年に自宅を改造し「画廊」を開いたのは、二人の佐藤との運命的なかかわりが大きかったのだろう。
 素人経営の行く先を危惧する人もあったというが、敬愛する画家の企画展のみ行うという初心を貫き、20年以上地道に活動が継続しようとはだれも予想しなかったに違いない。作家や観覧者の文で構成する冊子「絵」の発行も50号を超えた。
 火事は小島氏の蔵書との再会に新しい「民衆文庫」を夢見ておられた矢先のことだった。7月の「小川龍彦と創作版画展」が画廊での最後の展覧会になった。
 田部さんは当初、画廊を「絵のある茶の間」と称していたという。事実、企画展では専用スペースだけでなく田部さんの茶の間まで絵が掛けられるのが常だった。
 画廊たべの特色と魅力は、なによりこの茶の間にあったと私は思う。異色というのではない。むしろ平凡な、しかし田部さんらしい趣味と生活感と歴史のしみこんだ日本の「茶の間」。そこに「油絵」がしっくりとはめこまれる。炉端にはいつも和服の田部さんがいて、足を踏み入れる人にゆっくりお茶を入れてくれる。
 だれにも開かれた、こういう時空間はありそうで、ない。日本ではこの百数十年、「油絵」はこのような場で見られることを想定して描かれてこなかったからだ。
 日本近代の「美術」は、いまだにどこか私たちから隔てられてある。この障壁をくずすためには作り手でなく、むしろ受け手(普通の日本人)側からそれを再構築する必要があるのではないか。そう気づかせてくれたのが、この「画廊たべ」の空間だった。
                  ◇
 6月に開かれた田部さんの卒寿の祝いの席では、作家里村洋子さんの尽力で復刻された「民衆文庫」誌が配られた。小島さんの霊に捧げられたこの再刊の緒言を、田部さんは奇しくも火災と同じ日付の記憶から書き起こしている。考えてみれば「画廊たべ」は、「民衆」が主役になった(と感じられた)50年前のその日に、一人の越後人の心に最初の芽を吹いたのだった。
 そこから生い育った無二の空間。その不在が、まだうまく信じられない。

写真は「画廊たべ」の茶の間。
1992年5月、佐藤清三郎展。
左が田部直枝氏
(撮影・渡辺康文)