六月の風会レポート173掲載

'73東京幻想 ―― 今なぜ


大倉 宏(美術評論家)

 元旦。私は新築の家の六畳間に敷かれた布団のなかで高熱に身もだえていた。年末に発熱し、ほぼ冬休みいっぱい起きあがれなかった。3日ほど眠られず、幻覚に苦しむ。
 東と南の大きな障子から差し込む光が日中まぶしい。欄間のガラス戸ごしに水彩画のような青空が見えた。毎日、毎日。怖いほどの明るさが新鮮で不快で、痛い。
 自分の1973年を思い出そうとしていたら、こんな記憶がよみがえってきた。高校二年の冬、と思ったのだがまてよ、そういえば家の新築は大学一年、1975年だ。あわてている追い打ちのように、ウナックから、原稿のタイトルを「'73東京幻想――今なぜ」とするようにとの連絡。

 ガーベル・レホヴィッチはポーランドの画家、今年82歳らしい。「'73東京幻想」というのは1973年に日本で出た彼の画集の名前。
 新潟の私たちの画廊(新潟絵屋)で、去年(2001年)「井上有一の『花』」という展覧会を、ウナックトウキョウの全面的協力で開催させていただいた。そのあと海上さんから当地ゆかりの宮柊二がガーベルという画家と合作した本があるから送る、と電話があり、『'73東京幻想』と版画10点が宅急便で届いた。本はまるで玉手箱を開いたみたいな感じがした。
 以後の経緯は略すけれど、ともあれこの9月(25〜30日)に堀之内町の宮柊二記念館で、10月(2〜10日)には新潟絵屋で29年前のガーベルの絵と版画の展覧会を開くことになった。
 宮柊二記念館では開館10周年のイベントになる。
 この『'73東京幻想』(刊行 UNAC TOKYO デザイン 柴永文夫)は、ガーベルの油彩、版画(リトグラフ)と宮柊二の言葉(「短歌ふう」「小唄ふう」「催馬楽ふう」などいろんな日本の過去の詩形で書かれたもの)で編まれた詩画集。六本木スウェーデンセンターでガーベルの個展を見た海上さんが、ガーベルに働きかけ、さらに宮柊二を誘って自ら編集した。別に「ガーベルの日本幻想」という短編映画も作られた(撮影構成・吉岡康弘)。そのラストシーンに「ガーベルの日本幻想展」という展覧会の、盛大なパーティらしい会場風景が映し出されるが、この展覧会のプロデュースももちろん海上さんに違いない。洋服姿の海上さんがにこにこしながら、何度もお辞儀をしている。

 本の出た1973年はオイルショックの年だというのだが、16歳だった私にはあまり実感がない(後のバブルとその崩壊も同じ。性格と世間の経済状況に無縁な生活環境のせいだろうか)。しかしガーベルの絵を見て思い出すことはある。東京の高速道路だ。
 あざやかなのはその3年前、1970年の大阪万博で見た映像。360度スクリーンというのに映し出されたのが首都高速で、6年前の東京オリンピックの時にできたという道を走る初体験が、私の場合この映像だった(当時のわが家は自動車とは無縁だった)。その後首都高は何度も実際に走ったが、自分で運転したのはこの1年ほど。それも2度ばかり。そして2度とも道に迷った。新潟の高速道路しか走ったことがないので、つぎつぎに現れる分岐に判断が追いつけない。行き先を見失い走り続けて覚えた既視感が、万博のあの映像だった。走るというより、知らない力に押されて走らされているような。セスナの飛行みたいに、小刻みな上下動を繰り返し、道が道を縫っていく。止まれない。
 ガーベルの「High-way in the night」という絵では、黄や赤や緑に明滅するリボンが浮遊する。

 とほくこし波蘭国(ぽーらんどこく)の絵師いかに
 ひかりの帯や みじか夜の空

 当時いたるところで建設工事が行われていた東京の熱気に、波蘭国の絵師は目をみはった、と海上さんは言うのだが、描かれた建物は実体感がない。蒟蒻か四角い海草のよう。
 映画にはどこかのビルの上階と思われる、がらんとした暗い部屋で、カンバスに指で絵具をこすりこむガーベルがでてくる。窓の向こうに、四角い建物に埋まる東京の町が見える(その一つは「エトワール」という字のあるアンバランスに大きい看板をのせている)。今も東京の大半に堆積するこれらの建物には確かに実体がない。建物が建物としての個を見る者に向かって開く(表す)顔が、形がない。熱せられてふくらみ地上につきでた吹き出物のようだ。
 当時東京の大学に通いだした私に、そのことははっきり意識できなかったけれど、感じてはいた、と思う。大学に通った6年間、私は徐々に東京が嫌いになった(今はそうでもない)。

 大学1年の時、親が建てた小さい家は首都圏のはずれの町の、そのまたはずれの畑をつぶしてできた分譲地にあった。戸を開けるとすぐ芋畑で、向こうに松林が見えた。林のなかで夏は蜩が鳴いた。遠目に美しい林の下は藪で、冷蔵庫やテレビが捨てられていた(不法投棄とか産業廃棄物という言葉が話題になるのは、それから10年くらい後のこと)。
 新興住宅地というのも、都市から周辺への吹き出物であり、私が目にしたのはそこからこぼれた膿の一部だったのだと今思う。あのころの私たち(話が大きくなるけど、あえて日本人と言おう)には、いろんなものが見えていたけれど、また同時に見えていなかった。それが「とほくこし波蘭国の絵師」には見えた、見えるだろうことが、日本人としては異例の鋭い目の持ち主である海上さんには見えたのだろう。だから絵師を日本にとどめ、佐渡へ導き、映画を作り、画集を編み、展覧会を開いた。でも73年という年の名を冠した本は、その年が過ぎると年鑑のように売れなくなってしまったという。日本という国ぜんぶが、行き先を見失った首都高上の車のように。ひとつところに止まることができなくなっていたことを、象徴的に語るエピソードだと思う。
 映画のなかのガーベルはどことなく、疲れているように見える。あるいは、東京の風景や宴会場の日本人たちと比べると、違う時間を生きているように見える。
 日本人のように、彼はどこかへ行かなければならないわけではない。しかし濁流を橋上から眺める人のようでもない。宮柊二の感じたガーベルの絵具の色の「あたたか」さは、絵師が東京(日本)を席巻していた熱の奔流を、外から眺めつつ、そこにくるぶしや手を浸してみてもいることの信号のようだ(その仕草に私は、ガーベルが、アメリカ人でも、フランス人でも、中国人でもない、ポーランド人であることを感じる)。
 『'73東京幻想』に収められた絵は、73年の東京の熱をたしかに静かに皮膚呼吸していて、その熱が絵を、絵師を、どこか深いところで興奮させ、疲労させてもいる。まるで1975年の元旦に私を苦しめた、あの下がらない熱のように。

 絵を描くガーベルの部屋は暗い。けれど窓の向こうの東京はハレーションを起こしたように白い(撮影の吉岡の意図的演出?)。その白さは幻覚に苦しんだ日々に、障子から無遠慮に流れ込み続けた光のように新鮮で、不快で、痛い。あのころの日本は、そのように明るかったのではないか。底に不快と痛みを隠した、けれどわくわくさせる明るさにせき立てられるように、町を壊し、作り続けた。運河と川の町東京の川底に、コンクリートの柱を乱立させ、高速道路を造った(だから首都高はあんなにうねうねしている)。
 林や田や畑を潰し、山を崩し、海を埋めて住宅地を造成した。そのように世の中はどんどん明度をまし、いろいろあったけれど軽やかな80年代に移っていったのだった。
 魚市場、パチンコ、ボーリング、床屋のサインボール、ナイトクラブで見かけたのであろう胸をはだけた女たち、櫛と簪と日本髪、人力車(そんなモノがまだ東京で見かけられたことを映画ではじめて知った)…。ガーベルの絵に登場するイメージの多くは、イメージとして見れば汗と演歌の匂いのする70年代のそれだけれど(大概は直接ではないが記憶にある)、奇妙なほどノスタルジーを感じさせないのは、それをたぐり出す色やテクスチュアに、生き物の内部めいた暗さと艶があるからだろう。その暗さはたしかにあの時代のものなのだが、明るさに目の眩んだ私たちには見えなかった。(詩画集を開いた時、その闇が玉手箱から立ち上る煙に見えた。)

 闇はもちろん、死んでいない(8、90年代に大きな黒いかたまりとなって、世間の表層に吹き出したりもした)。1983年に私は東京から逃れるように、新潟に来た。しかしガーベルの絵のサインボールから放散される髪のように、東京の触手は長く際限がない。
 十数年遅れでそれなりに顔のあった町が身を崩し、東京をなぞっていく。町中の過疎地と言われる下町(しもまち)の古い町屋に間借りして画廊を始めたのが2年前。郊外のバイパスから町中へ嵌入する巨大な道路計画が以前からある場所でもある。長く進捗していなかった計画が、ワールドカップに間に合わせるように急遽完成された橋に鞭打たれて歩きだし、この1年ほどで画廊のまわりがつぎつぎ空地になり、フェンスで囲われた。
 優雅なアーチを描く橋の方から、蒟蒻のような柱の列が近づいてくる。「ひかりの帯」が漂い、秋の展覧会を待ち伏せするかのように、赤や緑の「刃の目を持つ魚ら」が回遊している。
 そんな幻想が、空を見る私の視界を横断する。

掲載誌 
ウナックトウキョウ発行 
「六月の風」173号