2002年11月8日 新潟日報掲載

抽象画の中に自然の息遣い

インゴ・グメルス展

上原誠一郎(アートプロデューサー)

「夢の旅」
油彩 60×50? 2002年

 インゴ・グメルス展は抽象画の連作展である。グメルスは当年70歳のドイツ人。娘が暮らす縁で、新潟での展覧会が実現した。
 バイエルン地方の古都、レーゲンスブルクにあるグメルスのアトリエの窓からは、白樺の木々が見える。ドナウ河までも、歩いて1分とかからない。
 絵に没頭したあとは、ドナウ河沿いの散歩がお好きだ。西へ30分も歩けば、メルヘンそのものの美しい風景がつづく。画家の内部に、このドナウ近郊の光と影は深く影響を与えずにはおかないだろう。
 今回は油彩の小品ながら、画家の内的表象への透徹した視線、自由闊達な遊戯性がないまぜになった極めて充実した作品が並ぶ。
 抽象画というと、なんとなくなじまない向きも多いかもしれない。けれども具象という意味を伴った形がないからこそ、われわれはグメルスの抽象の中に単純かつ直截に、木々を渡る風、水面の輝き、土の匂いなどを感じとることもできるだろう。
 個展のタイトルが「INNER LANDSCAPES(インナー ランドスケープス)」と知ったとき、梶井基次郎の小説の同様なタイトル「ある心の風景」を思い起こした。梶井はその作品の中で「視ること、それは自分の魂の一部分或いは全部がそれに乗り移ることなのだ」と主人公に語らせている。この言葉はそのまま、キャンバスに向かうグメルスの創造の秘儀に置き換えることもできるだろう。
 画家は白いキャンバス(それは白い闇、あるいは虚空)の上に光を見、風に触れ、匂いを嗅ぐ。それこそ「インナー ランドスケープス」と画家は呼んだのだが、彼にとってその行為は幻視や錯覚ではなく、確たる日常の行為としてある。グメルスにとって描くとは、そのようにして「視た」ものを、スクラッチ(引っ掻くこと)、パターン(繰り返し)、レイヤー(塗り重ね)などの行為を通じて複雑なマチエール(質感)と色調を作りだすことである。言い換えれば、心象に浮かんださまざまな美の破片を、キャンバスにちりばめることでもある。
 スクラッチとレイヤー、破壊と創造のかなたに屹立するグメルスの幻想の城。そして反乱するひとむらの色光。それは、かつて梶井基次郎が「檸檬」の中で、ゴチャゴチャに本を積み上げた幻想の城のてっぺんに、檸檬という冴えかえった黄金の爆弾を仕掛けたことを思い起こさせた。