あーとぴっくす
 

作者の「底のほんとう」表現

華雪書展「劇」

2010年5月22日〜6月20日の毎週金・土・日
会場:二宮家米蔵(聖籠町蓮野)
主催:新潟絵屋 協力:新潟まち遺産の会
照明協力:伊藤裕一
(財)新潟県文化振興財団助成事業


井上美雪(新潟絵屋運営委員)

 
 この春、子どもが小学1年生になり、ひらがなを書き取る宿題を持ち帰るようになった。たとえば昨日は「も」であった。うすい印字をなぞり、升目の数だけ字を書き入れる。そのようにして、私も字を覚えていったのだ。通り過ぎた記憶をなぞり、子どものころの感覚でみると「も」の字が新鮮に映る。
 書家の華雪さんは京都に生まれ、5歳から書を始めた。今年は字を書き始めて30年だという。幼少時代より、なぜその字を書くのかを自身に問い、考えることを大切にしてきた。字が紙のどこに、どのような形で置かれるか、瞬時に選び取る、その連続を幾重にも束ねてきた。
 そして、どのような形で作品を見せるか、イメージを具体化し、自らくぎをくわえ金槌片手に展示空間をつくり上げる。そうしてできた空間で、見る者はなぜその字が、そこに書かれたのかという根本の疑問を投げ掛けられる。華雪さんが自身に問い、その末に至った場所へと手を引かれ、立ち止まり、日常で足早に通り過ぎる字に新鮮な奥行きを見つけることになる。
 今回は、国登録有形文化財の古い米蔵を会場にした、「劇」展。「劇」は『はげしい』『劇的な所作』『虎頭に扮したものを伐つかたち』を意味する。
 展覧会を前につづった作家の言葉に、「今頃になって、はじめて自分の底のほんとうのことを書く、書き方を知った気がしている」とあった。「底のほんとう」から引き出されるものはなんだろう。米蔵でじっくりと眺めたい。華雪さんと私自身の底辺に流れるものを。




華雪書展 劇

登場人物 書く人
     読む人
     見る人
場面   木造の古い巨きな箱

 

 


劇 2010
賛美歌 2010
北光 2010
虎 2009 edition30
今 2010
と 2010 書:華雪/布:丸山正
花放 2010
心 2010
家 2009 edition30
新 2010
幸 2010
動物 2009
人 2010
日日 2010 書:華雪/型紙:丸山正
詩 2010




すべての劇的な場所のあとには、その劇的なものと全く反対のものがおおいかぶさる

遠藤周作『エレサレム巡礼』より


いつかまたふいに今あるすべてをなくす時が来るかもしれない。けれど何度なくしても私はきっと字を書くことからはじめるのだと思う。
2年前に書いた書評の最後に、わたしはこう書いていた。
その当時、「おれはおれの家を焼いた」からはじまる会田綱雄の詩『兇状』を繰り返し書いていた。書きながら、けれどわからないことがあった。
今思えば、すべてに、少しずつの想像が混ざっていた。

「劇」と書きながら、劇的なこととそれが通り過ぎ残された時の静けさを願っていたような気がする。「劇」と書く中で、わたしにとっての劇は「家」だと気が付いていった。
出掛けて戻って来る、ただいまを言ったり思ったりする場所がわたしにとっての家だとすれば、棲処としての家も、そしてここ新潟も家のひとつだ。新潟に来る。早朝の万代橋を渡りながら、息を深く吸い込む。夏の湿った空気が、冬の冷たい風が、身体に行き渡り、ただいまと声が出る。ただいまと思う場所があり、人がいる。
「劇」の字を書きはじめた頃から、「家」は、自分を含めその中にある人も、少しずつ変わっていくのだと知った。変わっていく様を見た。そこにある劇は、今を引き継ぎながらいくつもの継ぎ目を経ながら、新たに刻々と続いていくのだと知った。
続くということを見た。そう思った。
劇的な場所のあとに聞こえたのは聞き慣れた日常の音だった。鳥の声。誰かがひねる水道の音。子供達の遊ぶ声。道を行き来する人の足音。名前を呼ぶ声。笑い声。

字を書きはじめてから今年で30年が経とうとしている。
今頃になって、はじめて自分の底のほんとうのことを書く、書き方を知った気がしている。