夭折の画家たち ―新潟の作家たち その3―
新潟市美術館 1987年1月6日〜2月15日

田畑あきら子

 田畑あきら子の特異な感覚と才能は、生前から、親しい人々の間では高く評価されていた。彼女が28歳で夭折した翌年、友人たちが遺稿集を編み(彼女はすぐれた詩人であり、特異な文章家でもあった。)、東京で遺作展を開いた。遺作展はその翌年には新潟で、さらに死後8年目には巻、東京、新潟の3ケ所で開かれている。展覧会の開催に尽力した人々のなかには、生前の画家とは面識のなかった者も多かったと聞く。
 田畑あきら子について語られ、書かれた言葉の多くは、むしろその絵画の魅力の語り難さを明らかにする。いわば人は、正体を確と見きわめきれないままに、彼女の絵の趣味でかつ透明な世界の触手に抱き寄せられてしまうかのようだ。
 生前を知る人たちの話では、田畑あきら子は一見したところは、むしろ明るく健康的な女性だったという。身体的にも頑健だったことは、例えば、中学時代から運動にすぐれ、高校に進むとオートバイの免許を取り、家業の店の配達をよく手伝う少女だったこと、美大生の頃、アルバイト先で女性たちが戯れに格闘技をしたところ、彼女が一番強かったなどという逸話からもうかがえる。しかし、その一方では、礼儀正しく、古風な面もあった。また、非常な読書家であり、詩人、手紙魔、雑物の収集家、バッハ、モーツアルト、モダンジャズの耽溺者、そして今回展示されるような絵を描く画家であった。彼女の多面的な性格は、ある友人の次のような言葉に印象的に記されている。
 「10年近くむかし、国立の喫茶店。妙な女の子を見た。14歳の少女の顔と60歳の老婆の顔が同居していて、時には、それがどちらか極端になる。それが彼女だった。」(西猷作「田畑あきら子遺稿集」より)
 吉増剛造氏は、田畑あきら子にとっては、生まれ故郷の新潟(巻)と東京との距離を凝視すること、その間を往復し、移動する時間が重要な(宿命的な)意味をもっていた、と指摘する。異質な世界をかかえ、そのいずれにもこだわりつつ、その間を揺れ動くことに真剣だったということだろうか。遺稿集の「『プルーストの質問書』による田畑あきら子の解答」で、彼女は感情のおもむくままに出来る人とその反対の人に引かれるが、自分は「ドチラデモナイヨウデ悲しい」と記している。どちらでもないということは、いずれでもあるという意味で、自我が感情的性向とストイックな性向の間で分裂の可能性を孕んでいたことを暗示する。新潟と東京との距離とは、地理上の距離であると同時に、象徴(精神)的な距離でもあったのではないか。
 学生時代の素描では、激しい身振りの描線に、同じ力強さで「消す」作業が重ねられる。画家の眼は、あたかも「実在」と「空無」の両極をせわしく往復することにより、その中間に生成し、漂うものを誘い出そうとするかのようだ。重要な点は、ここでは異方向へ向かう力の拮抗が、生気を生む契機となっていることである。ここに、田畑あきら子の絵画の原点を認めるとすれば、以後の画業は、この特殊な力学をさらに多元化し、複雑にしていく過程だったとは言えないだろうか。
 1963〜67年に、田畑あきら子は、相次いで肉親や身近な人の死を経験する。そして67年の母の死の直後から、憑かれたように制作に没頭し、翌年には生前唯一の個展を開いた。田畑あきら子の絵画が、今日、単に60年代のアンフォルメルやアメリカの抽象表現主義の影響を受けた作品という領域を越えた、独特のものとして感じられるのは、この時期以降の作品の存在によるところが大きい。油彩では「白」が多用される。この「白」は、彼女の特徴である消す行為の痕跡だが、同時に雪や雲のような自然のイメージも呼びさます。「自然」はさらに「宇宙」と言いかえることができるだろう。(昼のイメージが描かれた作品もある。)線は、初期の素描のエネルギッシュなそれでなく、精神が、移動する空間は、触りながら確かめるかのようにゆるやかに引かれる。矢印、記号、文字、人体の器官を連想させる軟質の形態などが画面に散乱し、画家はそれらの間をおもむろに往還しながら、夢のようなイメージを紡ぎだす。
 「コンナ形!コノ間ニ在ルモノハ、ココヲNO1トスルト、ココハNO2ノ地点デアロウ、風ノHouseヲNO3トシテダ。コンナ飛バセカタハ?ソコニモアフレデテ、ソレカラ……」(1968年4月、サトウ画廊での個展の案内状の一節)
 こんな風につぶやきながら彼女は描いたのだろうか。おそらく、田畑あきら子は、宿命的に抱える自らの生と感覚の多元性を受け入れ、凝視し、その間をためらわずに歩いたのだ。そのことにより、彼女は、いわば精神の中間地帯に広がる多層的なイメージの宇宙を切り拓いた。60年代の美術の多くが過去のものとなった今もなお、田畑あきら子の絵画が新鮮に見えるのは、はかでもないこのような固有の力学によって、これらの不思議な画面が創られたからだろう。

 

田畑あきら子 年譜
1940 昭和15
12月14日、父 田畑譲良、母 シゲの二女として、西蒲原郡巻町に生まれる。
本名 明(あきら)子。姉1人、弟1人があった。生家は祖父の代からの酒屋。
1945 昭和20(5歳)
父、ビルマで戦死。
1947 昭和22(7歳)
西蒲原郡巻町立巻小学校に入学。
1953 昭和28(13歳)
西蒲原郡巻町立巻中学校に入学。
在学中より詩作をはじめる。(以後、死の間近まで断続的に書き続けた。)読書家であり、運動にもすぐれた生徒であった。
1956 昭和31(16歳)
新潟県立巻高等学校に入学。
美術クラブで丸山清六の指導を受ける。家では配達の仕事などを積極的に手伝う。
1959 昭和34(19歳)
武蔵野美術大学洋画科に入学。山口長男、井上長三郎、麻生三郎に師事。
制作のかたわら、国立周辺に居住する学友を中心によく芸術論を戦わせた。セザンヌ、マルセル・デュシャン、ロバート・ラウシュンバーグ、ジャスパー・ジョーンズ、ジム・ダイン、アーシル・ゴーキー、荒川修作などに興味をもつ。また喫茶店等でバッハ、モーツアルト、モダンジャズに聴きびたる。(音楽は大きな霊感源となった。)対象の形を描写的になぞることから次第に離れ、全体的なものを指向して、描く作業と消す作業が拮抗するようになる。
1963 昭和38(23歳)
武蔵野美術大学洋画科卒業。
日米仏―美術・デザイン大学作品展に選抜され、卒業制作(「コンポジション」)を出品。
6月、祖母死去。
1964 昭和39(24歳)
東京新宿の椿近代画廊でグループ展に参加。
8月、母発病。
1965 昭和40(25歳)
4月、武蔵野美術大学図書館に司書として勤める。
国立でグループ展(「げげんの会」(武蔵野美術大学出身の画家が中心になったグループ))。切り抜きの赤いハートをつけた黒いドレスのオブジェなどを出品した。
椿近代画廊でグループ展(「げげんの会」)。
1966 昭和41(26歳)
新潟市でのグループ展に参加。
1967 昭和42(27歳)
3月、母の病状悪化のため、休職し、姉とともに看病にあたる。
7月、母死去。
9月、復職。憑かれたように制作に取りくむ。(素描、水彩、油彩の大作など。)
1968 昭和43(28歳)
4月1日〜13日、東京銀座のサトウ画廊で、最初で最後となった個展を開く。
1969 昭和44
6月にサトウ画廊で2回目の個展を開く準備を始める。
3月、新潟大学医学附属病院で手術。胃癌の末期で余命3ケ月と診断される。
4月23日、一時退院。症状は悪化の一途をたどる。
6月26日、再入院。
8月27日、同病院で死去。享年28歳。
1970 昭和45
8月、「田畑あきら子遺稿集」が友人たちの尽力で刊行され、東京日本橋の田村画廊で遺作展が開かれた。
1971 昭和46
遺稿集が発端となり、イチムラデパート新潟店で「田畑あきら子遺作展」が開催される。(8月27日〜9月8日)
晩年の素描類が、一括して新潟県美術博物館に収蔵される。
1976 昭和51
2月、「芸術新潮」の連載随筆「気まぐれ美術館」(洲之内徹)に、作家と作品が紹介される。
1977 昭和52
7月4日〜17日、巻町立郷土資料館で「田畑あきら子遺作展」が開催される。
9月12日〜10月8日、東京銀座のかんらん舎で「早逝の画家達 田畑あきら子展」が開催される。遺稿集より抜粋の「田畑あきら子詩集」が発行され、あわせて「みづゑ」11月号に、吉増剛造「田畑あきら子の絵画(火だるまのなかの白い道)」が掲載された。
10月24日〜11月15日、新潟市の康画廊で「田畑あきら子展」が開催される。
1987 昭和62
1月、「夭折の画家たち展」新潟市美術館
1996 平成8
5月、「田畑あきら子展―絵画たちと言葉たち」ギャラリー川船(東京・京橋)
11月、「田畑あきら子展」新潟県立近代美術館
1997 平成9
8月、「白い雲の中へ―田畑あきら子詩画集」発刊(新潟日報事業社)

出品リスト
作 品 名 制 作 年 材  質 寸法(cm)
手     鉛筆、紙 35×25
すわる裸婦   鉛筆、紙 36×26
裸婦   鉛筆、紙 36×25
人物   鉛筆、紙 36×25
素描する人   鉛筆、紙 26×35
裸婦   鉛筆、紙 36×25
樹    鉛筆、紙 23×36
  鉛筆、紙 25×36
風景   鉛筆、紙 25×35
風景   鉛筆、紙 25×35
靴    コンテ、紙 25×35
作品    コンテ、紙 25×35
素描    鉛筆、紙 35×25
作品    コンテ・ペン、紙 25×36
素描   墨、紙  36×26
素描   鉛筆、紙 36×26
作品   パステル・ペン、紙 36×25
コンポジション 1963 油彩、カンバス 134×163
作品 1963頃 水彩・色鉛筆、紙 36×28
作品(顔) 1963 水彩・パステル、紙 35×25
白い恐怖 1964  水彩・パステル、紙 74×53
なぜに人間に固執する白い恐怖   油彩・鉛筆、紙 75×53
作品(新潟県美術博物館蔵) 1964―65 水彩・パステル・墨、紙 89×58
作品 1965―66頃 油彩・糸、紙 53×38
作品(新潟県美術博物館蔵) 1966 鉛筆、紙 33×24
作品 1966 油彩、カンバス 80×60
桃山  1966頃 水彩・クレヨン、紙 87×57
作品(新潟県美術博物館蔵) 1967 鉛筆・色鉛筆、紙 35×24
作品  1967―68 色鉛筆、紙 34×24
作品   パステル・ペン・墨、紙 37×52
作品   ペン、紙 18×25
作品   パステル、紙 54×38
作品   パステル、紙 54×38
作品   パステル、紙 54×38
作品   油彩・水彩・パステル・ペン・墨、紙 89×57
作品(新潟県美術博物館蔵) 1969 鉛筆・色鉛筆、紙 35×27
作品(新潟県美術博物館蔵) 1969 鉛筆・色鉛筆、紙 27×38
作品   油彩、カンバス 134×163
作品   油彩、カンバス 145×112
作品   油彩、カンバス 145×112
作品   油彩、カンバス 163×130
自画像 1969  鉛筆、紙 18×18
作品(スケッチブック) 1962―63 ペン、紙 26×18
作品(スケッチブック) 1962―63 クレヨン、紙 35×28
作品(スケッチブック) 1962―63 油彩、紙 38×30
詩稿(新潟県美術博物館蔵)   

※年譜の編集と解説文の執筆は大倉宏が担当した。