田畑あきら子 年譜 |
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1940 昭和15 |
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12月14日、父 田畑譲良、母 シゲの二女として、西蒲原郡巻町に生まれる。
本名 明(あきら)子。姉1人、弟1人があった。生家は祖父の代からの酒屋。 |
1945 昭和20(5歳) |
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父、ビルマで戦死。 |
1947 昭和22(7歳) |
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西蒲原郡巻町立巻小学校に入学。 |
1953 昭和28(13歳) |
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西蒲原郡巻町立巻中学校に入学。
在学中より詩作をはじめる。(以後、死の間近まで断続的に書き続けた。)読書家であり、運動にもすぐれた生徒であった。 |
1956 昭和31(16歳) |
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新潟県立巻高等学校に入学。
美術クラブで丸山清六の指導を受ける。家では配達の仕事などを積極的に手伝う。 |
1959 昭和34(19歳) |
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武蔵野美術大学洋画科に入学。山口長男、井上長三郎、麻生三郎に師事。
制作のかたわら、国立周辺に居住する学友を中心によく芸術論を戦わせた。セザンヌ、マルセル・デュシャン、ロバート・ラウシュンバーグ、ジャスパー・ジョーンズ、ジム・ダイン、アーシル・ゴーキー、荒川修作などに興味をもつ。また喫茶店等でバッハ、モーツアルト、モダンジャズに聴きびたる。(音楽は大きな霊感源となった。)対象の形を描写的になぞることから次第に離れ、全体的なものを指向して、描く作業と消す作業が拮抗するようになる。 |
1963 昭和38(23歳) |
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武蔵野美術大学洋画科卒業。
日米仏―美術・デザイン大学作品展に選抜され、卒業制作(「コンポジション」)を出品。
6月、祖母死去。 |
1964 昭和39(24歳) |
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東京新宿の椿近代画廊でグループ展に参加。
8月、母発病。 |
1965 昭和40(25歳) |
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4月、武蔵野美術大学図書館に司書として勤める。
国立でグループ展(「げげんの会」(武蔵野美術大学出身の画家が中心になったグループ))。切り抜きの赤いハートをつけた黒いドレスのオブジェなどを出品した。
椿近代画廊でグループ展(「げげんの会」)。 |
1966 昭和41(26歳) |
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新潟市でのグループ展に参加。 |
1967 昭和42(27歳) |
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3月、母の病状悪化のため、休職し、姉とともに看病にあたる。
7月、母死去。
9月、復職。憑かれたように制作に取りくむ。(素描、水彩、油彩の大作など。) |
1968 昭和43(28歳) |
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4月1日〜13日、東京銀座のサトウ画廊で、最初で最後となった個展を開く。 |
1969 昭和44 |
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6月にサトウ画廊で2回目の個展を開く準備を始める。
3月、新潟大学医学附属病院で手術。胃癌の末期で余命3ケ月と診断される。
4月23日、一時退院。症状は悪化の一途をたどる。
6月26日、再入院。
8月27日、同病院で死去。享年28歳。 |
1970 昭和45 |
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8月、「田畑あきら子遺稿集」が友人たちの尽力で刊行され、東京日本橋の田村画廊で遺作展が開かれた。 |
1971 昭和46 |
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遺稿集が発端となり、イチムラデパート新潟店で「田畑あきら子遺作展」が開催される。(8月27日〜9月8日)
晩年の素描類が、一括して新潟県美術博物館に収蔵される。 |
1976 昭和51 |
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2月、「芸術新潮」の連載随筆「気まぐれ美術館」(洲之内徹)に、作家と作品が紹介される。 |
1977 昭和52 |
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7月4日〜17日、巻町立郷土資料館で「田畑あきら子遺作展」が開催される。
9月12日〜10月8日、東京銀座のかんらん舎で「早逝の画家達 田畑あきら子展」が開催される。遺稿集より抜粋の「田畑あきら子詩集」が発行され、あわせて「みづゑ」11月号に、吉増剛造「田畑あきら子の絵画(火だるまのなかの白い道)」が掲載された。
10月24日〜11月15日、新潟市の康画廊で「田畑あきら子展」が開催される。 |
1987 昭和62 |
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1月、「夭折の画家たち展」新潟市美術館 |
1996 平成8 |
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5月、「田畑あきら子展―絵画たちと言葉たち」ギャラリー川船(東京・京橋)
11月、「田畑あきら子展」新潟県立近代美術館 |
1997 平成9 |
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8月、「白い雲の中へ―田畑あきら子詩画集」発刊(新潟日報事業社) |
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