1977年11月1日 新潟日報 
 


 「けっしてグチをいわない女性だった」という。西蒲・巻町出身の画家、田畑あきら子さんが、がんのため28歳で死んでから8年――なぜかいま、彼女の作品が新たな感動を呼び起こしている。新潟や東京でたて続けに3度の回顧展が開かれ、遺稿の詩集もつくられた。一流美術誌で特集ページも組まれ、いわば「静かなブーム」。ほとんど無名のまま、この世を去った田畑さんだが、残された作品は、「死に急ぐ世代」などと呼ばれるいまの若い人たちの心をとらえて離さないようだ。

 年譜風に、最近の田畑さんにまつわる動きを振り返ってみると――。
 76年2月 「芸術新潮」で、美術評論家、洲之内徹氏が7ページにわたり特集。
 77年7月 巻町郷土資料館で、特別遺作展。
 77年9月 死の翌年につくられた遺稿集から、詩をばっすいして新しく遺稿詩集を刊行。東京・銀座の画廊「かんらん舎」でも遺作展。
 77年10月 新潟市の「康画廊」でも遺作展。
 77年11月 美術雑誌「みづゑ」が6ページの特集。詩人の吉増剛造氏が「田畑あきら子の絵画」というテーマで論じる。
 東京「かんらん舎」の回顧展を企画したのは、若い画廊主、大谷芳久さん(27)だった。もちろん、田畑さんとは何のつながりもなかった。「私の場合、『芸術新潮』を読んで関心を持ちました。巻町の回顧展を見て、これは東京でも(回顧展を)やる必要がある、と思ったわけです」
 「かんらん舎」の回顧展では、遺稿詩集の即売もした。1冊700円。できたばかりの詩集が、150冊も売れた。買ったのはやはり、ほとんどが生前の田畑さんとは一面識もないはずの、二十代の人たちだった。
 作品のどこに、若い人たちを引きつけるものがあるのだろうか。3度の回顧展のそれぞれに足を運んだという新潟市の女性(23)は、こう説明する。「見ていてホッとする絵、というんでしょうか。自分に似ているようにも思えて……。とにかく気が安まるんです」
 田畑さんは1940年、西蒲・巻町で生まれた。酒屋の次女。こどものころから、とぎすまされた感受性の持ち主だったようだ。中学2年にはこんな詩をつくっている。

 ビロードの屋根、
 まるくふくらんだ水たまり、
 ゆるくたるんだ電線に春のめぐみがかかっている……

 巻高校1年のときには、田んぼに引かれていく牛を見ながら、こんな詩もつくった。

 知っているかい! お前は、若者の胸板を、大地を、グサッとひと突きに、わななきをすすっておやりよ!

 上京して1959年、武蔵野美術大学洋画科に入る。ヌーヴェルバーグのあらしが吹き荒れていた。まわりには吉増剛造氏など、芸術家を夢見る若い詩人や画家の卵たちがいたようだ。友人の一人の男性が、遺稿集で当時の印象をこう記している。
 「10年近くむかし、国立(くにたち)の喫茶店。妙な女の子を見た。14歳の少女の顔と60歳の老婆の顔が同居していて、時には、それがどちらかに極端になる。それが彼女だった」
 卒業したあとは、大学図書館の司書などをしていた。1969年、背中に痛みを感じ、ふるさとにもどり入院生活。新潟大付属病院で8月、胃がんのため死去。生前の個展は1度きりだった。
 彼女の作品の特徴は、線の運び、タッチだという。のろのろとカンバスの上をさまよっている線が、いつのまにか「異空間」を造形する。その線を自分の持ち味と心得ていたようで、デッサン帳の余白に「オボロ線」と命名していた。
 美術評論家などと呼ばれる人たちが魅せられるのも、この線の運びのユニークさである。吉増剛造氏は「彼女の作品の生命線」と言い切り、やはり回顧展をした新潟市「康画廊」の藤由康男さん(32)も「息が詰まるようだけど、オンナを感じさせる。自分の内面との闘いがつねにある線だ」という。
 「オボロ線」の特色は、筆の運びが遅いことである。デッサンの場合、とくによくわかる、と美術評論家、洲之内徹氏はいう。「鉛筆が紙に触れて行くその一瞬、その一瞬を画家が明晰に意識している線である」(「みづゑ」より)。カンバスを「世間」に見立てれば、この「オボロ線」こそが、短い人生を悩みながら生き抜いた田畑さん自身だった、といえるのではないだろうか。

 

 「美しきもの見し人は、はや死の手にぞ渡されけり」――遺稿詩集の中で、好きなことばとして、彼女はこの一文をあげている。「まるで、彼女が彼女自身のために選んでおいた墓碑銘のようだ」と洲之内氏はいう。「美しき人」は人生の幕切れをさえも見事な修辞で飾り切って去った。