1989年9月2日 新潟日報 
 


「凝視する眼」の画家
田畑あきら子没後20年に寄せて


後藤信行(新津高校教諭)

 田畑あきら子は1969年8月27日、がんのため28歳で短い生涯を閉じている。西蒲巻町に生まれた彼女が本格的に絵画に取り組んだのは、東京の美大に進学した1959年から亡くなるまでのわずか10年間である。しかしこの画家の特異な感性と才能は生前から周囲の認めるところであったらしく、亡くなった翌年には親しかった人たちの手によって東京で遺作展が開かれ、同時に詩人でもあった彼女の詩や文章をまとめた遺稿集が発行されている。その中で彼女は自身の絵について次のように書いている。
 「…何の理由もなく描くと、おもしろい。色というものはどんな色でも、美しく、終いには、雲のアタリに、ナニか飛んでいくような絵にナル。波とか、千鳥とか、赤いボタンとか。私の尊敬するある詩人は、それら宇宙の壁の白と、おっしゃいましたけど、それは大変難かしい。あらゆる色を含んだ白よりも、もしくは、いろんな形を、1/3乃至は半分を隠してしまう白の、白はそんな風に、雲みたいに、私は描いていくうちに、溶けていく…」ような絵を描いた画家である。
 その作品の多くは上下左右が判然とせず、観る者をあたかも重力から解き放ち、白い世界に漂っているかのような錯覚に陥らせてしまう。画面に広がる空間には、なにか軟体の、生命体とも物質ともつかぬ模糊としたものがゆっくりと移動して行き、われわれは視覚だけが独り立ちした世界へとさまよい込んだようである。観る側へのこうした効果は、計算されたものと言うよりはむしろ、描き手である画家が同時に空間に漂いながら、眼前に広がる風景? を凝視しつづける側でもあることに思いいたる。それほど彼女の「もの」を見つめる眼はひたむきで疲れを知らぬようだ。
 彼女には雑物収集の趣味があって、人が不用になって打ち棄てたようなものを拾い集めては絵のモチーフにしたそうで、絵の中にはそれを連想させるような形態が隠喩として随所にちりばめられている。彼女はこうした不用となった「もの」が発する独特の生々しい実在感と、同じその「もの」が持つ存在の不確かさとを同時に感じ取る特殊な感性を持っていたようである。
 それは彼女の作品の特徴である「描く」行為と「消す」行為を繰り返すことで、いわば拮抗する精神のフォルムとでも言うべき、「存在」と「無」との中間に漂う広大漠としたイメージを紡ぎ出したことからうかがえる。また「もの」に対峙する画家の眼は同じ鋭さをもって自身の内なる世界を見つめる眼でもあるわけだが、しだいに作品にはそうした実存的内照の傾向が色濃くなっていく。
 田畑あきら子が画家として活動した1960年代は、日本の経済が高度成長と符号するかたちでアメリカの現代美術を中心に、どっと日本に流入した時期である。当時の多くの作品が色あせてしまった現在、彼女の作品が単にアンフォルメルや抽象表現主義からの影響を受けていることにとどまらず、今なお新鮮さを失わないのは、合理的精神が失いかけている、存在の多層的イメージの世界にまっすぐに分け入りそこを切り開いてくれたからであろう。
 没後20年の間に、最近では一昨年の「夭折の画家たち展」(新潟市美術館)など、何度か県内でも作品が紹介されているが、普段この画家の作品に接する機会があまりないことと、県内における評価の不足を少し残念に思う。