越佐の埋み火
〈10〉田畑あきら子  新潟日報1995年3月8日掲載

あいまいへの非凡な感性


大倉宏(美術評論家)

 「フェルメール風な光の踊場を私の車椅子は走りまわります。赤電話の所に止まって、ダイヤルをまわすと、あなたのいない部屋でベルが鳴っています。じっと聞いていると、私がその部屋の中へ入って鳴っているような感じになります」
 シャレた恋歌の一節のようだが、そう思って読むと何か違う。もっとただならぬ非凡なものがある。「私は車椅子に乗って」でなく「私の車椅子は」走り回りますと書く。〈私〉を突き放すその視線をたどっていくと、電話線のはての不在の部屋に不意にベルの音になって鳴っている〈私〉が湧出する。〈私〉の変幻のあわいに、「孤独」という、あいまいなものが、あいまいなままの姿で触知される。
    ◇
 これは田畑あきら子が、新潟の病院で28歳で病死する一カ月ほど前に知人に送った手紙の書き出し。この後に「夕方はあんまり黄金十文字の夕日が素晴らしいので」とか「真青なボール紙を巻いた海は、太陽の巨大な輪転機にかけられていました」という鮮やかな言葉が続く。しかしこれを書いているとき、彼女は抗がん剤を投与されながら「おなかの痛みにヘイコウ」している最中だった。そうした追い詰められた位置で、こんな言葉を刻むことのできた田畑あきら子とは何者だったのか。
 60年代半ばに美術学校を卒業し母校の図書館司書をしながら制作活動をおこなったのはわずか5年。今日残る白い油彩の大作と独自の素描群はその最後の1年半に集中して描かれた。アメリカ美術の大きな影響と「反芸術」の胎動などで記憶される時代だ。美校では山口長男、井上長三郎、麻生三郎ら戦前からシュルレアリスムや抽象の仕事を続けてきた教師たちに接している。
 田畑の仕事には、見ようとすればそうした時代や教師らすべての影響を認めることもできる。しかし折衷ではない。それは30年後の現在の目で見るとさらに明らかで、彼女の絵は同時代に騒がれたどの作品よりむしろ「新しい」。
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 生体を一定状態に維持しようとする働きをホメオスタシスと言うという。彼女が信じたのは、いわば自らの感覚のホメオスタシスだったかも知れない。自らの抱える多面性や時代環境からの雑多な影響を彼女はすべてそこへ投げ込んだ。画面がシュールや抽象へ、表現主義や反芸術へと傾斜しようとすると、逆方向へ引き戻そうとする力が発動する。意志的というより感覚的な揺り戻しの動きのなかに、彼女の何と名付けようもない独特の絵画はつむがれた。そしてそのことで、どんな明確なイメージにも還元できないもの―多元性の中にさらされて在る、人間というあいまいな場の全体が、あいまいな形のままキャンバスや紙の上にこすりだされる。
 このあいまいさへの強烈な感受性は、スケッチブックの余白などに記された詩や、病床で書かれた手紙(それらは死後「遺稿集」としてまとめられた)にも一貫し、一定している。恣意的とあいまいさの違いを、彼女ほど徹底して追い続けた画家もいない。冒頭の一節が語るように、とらえ難い〈私〉のとらえ難さを、彼女は最後まで、渾身の力で手放さなかった。そのことの希有さの中に、彼女の絵や言葉の時代を越境する不思議な力は生まれている。

「越佐の埋み火」

1996年9月発行 
大倉宏/横山蒼鳳/若月忠信
新潟日報社