本職が大工の運営委員による、新潟絵屋・解体移築までの現場・記録です。
2007年1月9日
解体乗り込み初日、いよいよ始まった。まずは建具をはずしたり床や天井を剥ぐ。床板をめくると一部シロアリにやられていた。土台や柱は大丈夫だったのでひとまず安心。でも、やはり土台だけはすっかり新しく取り替えたいと思っている。
2007年1月10日
移築先での地鎮祭。神主さんは安田八幡宮の安田さん。映画「阿賀に生きる」で川舟の完成シーンに出演していた人。生憎の冷たい雨模様となるが、「雨降って地固まる」などと言って縁起が良いことにする。大家さんをはじめ運営委員やスタッフも駆けつけ工事の安全を願う。
2007年1月16日
屋根瓦を降ろす。再使用のつもりだ。今の新しい瓦は色も均一で寸法もひとまわり小さく、したがって狂いも無く葺きあがりがきれい。しかし、味わいや面白味に欠ける。再使用は瓦葺き職人の腕の見せどころであり、泣かされどころでもある。でも、心配無用。この屋根屋の息子さんは昨年の屋根葺き職人の全国チャンピョンになった人。
2007年1月17日
クレーン車の乗り込み、骨組みの解体に入る。大家さん側のほんの一部ではあるが火災に遭った名残を発見、生々しい歴史を見た思い。屋根裏の小屋組みには100年近い埃が積もっていて雨で濡れると滑って危ない状態。いろんな技も駆使してはあったが、意外と金具も多く使い、ビスはなんとマイナスの頭で電動工具のない時代なのに多用されていたのには驚いた。
2007年1月19日
移築先に水盛り遣り方を出す。基礎工事の前に大工が建物の位置と高さを示す作業。珍しく、五分(約1,5センチ)や一寸(約3センチ)の細かい間崩れがあってちょっと手間取る。そう、我々の世界では今も尺貫法で現場は動いている。上下水道が基礎の真下に埋設してあるというハプニングもあったが水道屋さんに急遽、移設してもらって助かった。
2007年1月20日
解体作業終了。当初、長尺もの(約9メートル)の運搬が大変で現場に置くことも考えていたのだが周辺の騒がしい状況もあって、結局すべてを一旦旗野住研へ運び込むことにした。暖冬のお陰で比較的お天気にも恵まれて何よりもまずは事故も無く解体作業を無事に終えることが出来てホッとする。
2007年1月22日
基礎工事の乗り込み。雪の心配も無さそうなのでこの分だと基礎工事も順調に進むことだろう。工場では運搬した材料を洗いながら釘を抜いたり埋木をしたりの作業もはじめた。一応、今のところの予定では2/17(土)大安を移築上棟の日としたい。拙文ではあるがこんな感じで完成まで経過報告させていただけたらと思っているので宜しくお願いいたします。


2007年1月16日


2007年1月17日
 

2007年1月22日
2007年1月19日

2007年1月27日
ベタ基礎のコンクリート打設。これまでの基礎は一部置石づくりであった。新潟地震なども経験しながらよくもったと感心する。今回は建物全体を一枚岩で支えるベタ基礎としたのでより丈夫になったはず。施工は左官でもある安田の斉藤工業さん。
2007年2月5日
工場での作業にもようやくメドがついてきた。復元を原則としたが痛みが激しい部材は新しく取り替えた。意外なことに小屋組みなどはいくつか古材が使用されていて、番付(在来工法では右端から左へ「いろは」の順で、下へは数字で、組み合わせの場所を示す)が新旧入り混じって混乱したが、なんとかまとめることが出来た。
2007年2月13日
いよいよ移築先へ資材の搬入となる。基礎が出来上がっての現場の印象は敷地が狭く感じることだった。一番長い材料は5間(約9.1メートル)もあって、建て方作業中の一週間は歩道の専用使用許可と国交省からフェンス内の一部を資材置き場として借りる。前面道路がちょうど水道工事等と重なり各業者がテンヤワンヤの状態となった。そんな中、オバサンたちが「ここが新しい絵屋なのね」などと話しながら通る。なんだか嬉しい気分になった。
2007年2月14日
今日からクレー車で建て方をはじめると言うのに大雪注意報が出る凄い天気となった。いくら材料をブラシで洗ったとは言え、梁の上などは滑るので油断できない。それでも職人たちの頑張りもあってなんとか大きな骨組みを上げ終えてホッとする。
2007年2月15日
昨日より一段と冷え込み雪が混じる暴風となる。屋根上での作業が困難と判断、お昼過ぎに止む無く現場を引き上げることにした。珍しいことだが、一応無事に建ちあがったこともあって急遽、会社で「天気まつり」(天気の快復を願って?酒を呑む)を決行。いや〜難儀した後の酒の旨いこと。
2007年2月17日
「天気まつり」の効果があってか良い天気となる。略式ではあるが、近頃では珍しくなった上棟式をやって餅撒きも、と思った。絵屋の人たちからもそれぞれお菓子などを持ち寄ってもらい、心配していた拾い手も徐々に集まって200個用意した紅白の饅頭もあっという間に無くなる。ご近所の人たちにもお裾分けして喜んでもらえたことも嬉しいことであった。
2007年2月26日
屋根瓦も再使用する。今の瓦よりもひとまわり大きく、昔は薪が燃料だったこともあってそれぞれ狂いが生じ均一でない。色合いも一枚ずつ違って味わい深い。とは言うものの現場では屋根葺き職人泣かせの瓦でもある。今回の不足分を探してまで古い瓦できれいにまとめあげてくれた斉藤屋根工事店の皆さんに感謝、さすが日本一の屋根葺き職人である。


2007年2月1日


2007年2月13日

2007年2月14日
 

2007年2月16日

2007年2月16日

2007年2月17日
 

2007年2月19日


2007年2月19日

2007年2月26日
 

2007年2月26日

2007年3月1日

2007年3月2日
絵屋の顔とも言える4間半(8メートル余り)もの「霧除け庇(ひさし)」が取り付いた。近頃の建物にはアルミサッシの普及や洋風造りが多くなったことなどもあって「霧除け庇」が少なくなったが、窓などの開口部や壁面を雨や日差しから守る役目があった。勿論、デザイン的にも大事な役目を果たしている。既存の化粧板が薄くて、しかも釘が錆びていたこともあってうまく剥ぐことが出来なかったのは残念だった。止む無く新しいものに張り替えたが、極力、前の雰囲気を残したくて柿渋を塗ってみた。
2007年3月6日
気づかれた方も多いと思うが、絵屋の特徴的なひとつで「船(せ)がい造り」がある。側柱の上端より外側に腕木を出して化粧板を張ったもの。語源は和船の両舷に渡した棚板(舟棚)を言ったらしく、船頭や名主層以上の住宅にしか許されなかったと建築大辞典に書いてある。構造的にはとてもバランスが悪く、特に絵屋の場合は道路側と反対側とで屋根の長さが違うことや開口部が大きくて壁面積が少なく、よくもこれまでの地震に耐えてきたものだと感心してしまう。しかし、ご心配なく。移築先の絵屋は目立たないところには近代的な金具なども充分に使って地震対策も講じてある。
2007年3月10日
夕方、職人が会社に帰って報告してくれた。「今日、現場に専務を訪ねたご婦人がいて手土産に越の寒梅(四合瓶)を持参してくれたよ」とのこと。さてさて、そんな気遣いをしてくださるご婦人とはどなたなのだろうか。「確か、アベさんとか言われたような・・・歳の頃は40歳台、いや30歳くらいだったかなあ〜」「おいおい、もうちょっとヒントはないのかよ」と言うことで大変失礼ながら、未だに思い出せないでいるR中ハイマーな小生なのです。どうぞもしも、これをご覧になっていたらご一報くださいませんか。
2007年3月13日
いよいよ窓がついた。が、網いりのアルミサッシである。いわゆる準防火地域なので開口部は網入りの防火サッシや防火シャッターに、外壁は杉板の下に不燃材を重ねて貼らなければならない。なんだかおかしな話ではあるが違法建築には出来ないので、手間はかかっても見えないところに不燃材を下貼りし、サッシの上には木製の格子戸を建てたりして、これまでの絵屋に限りなく近かずける努力をした。
2007年3月19日
今日は運営委員のみなさんに現場を見てもらいながらの打ち合わせ会議があった。現場の職人は作業していると騒がしいだろうとか、事故が起きては困るからと他の現場にまわる段取をしてくれた。当たり前のことだが図面上ではなかなか話しが見えないが、現場に立って具体的に大きさや位置を確認してもらえたことは何よりのことであった。もう少し造作も進んだらまたこんな機会をつくりたいと思っている。


2007年3月1日


2007年3月2日

2007年3月5日
 

2007年3月7日

2007年3月7日

2007年3月8日
 

2007年3月8日


2007年3月8日

2007年3月12日
 

2007年3月15日

2007年3月16日

2007年3月19日
 

2007年3月19日

2007年4月1日


2007年3月31日
今日で外部の杉下見板を張り終える。増築部は横張りであえて木地のままとし、塗装は施さなかった。既存部は縦張りとし、時間の積み重ねを経たように色をつける。実は上棟後に展示スペースの柱も3本古材に取り替えた。正直な所私は塗装すればいいと思っていたのだが、設計者の(伊藤)純一さんのこだわりである。これがなかなか無くて焦った。3寸5分(約10センチ)の細い柱であったり、せいぜい30年ものだったりで、思うようなものが見つからない。それが偶然通りかかった隣町の建築仲間の薪ストーブ用の山に何と180年も前(文政年間と書いてあった)の土蔵の柱が残っていたのである。「どうせ、もう燃すところだったから」とお酒2升で譲ってもらった。なんともラッキーな話だ。純一さんのこだわりに軍配。
2007年4月2日
仮設足場を撤去したいこともあり、左官屋さん、ペンキ屋さんから乗り込んでもらう。僅かな面積だが二階の白壁が仕上がったら前面の表情がキリッと引き締まってきた。外部塗装の色合いを純一さんからいくつか調合してもらった。
2007年4月12日
ようやく、仮設足場が取れた。前にあるコンビニの駐車場からはじめて全体を眺めてみた。とてもいい感じだ。夕方、歩道を急ぐ人たちも思わず立ち止まって見とれて行く。嬉しい気分。
2007年4月16日
カウンターの上にエアコンを埋め込む作業。ビルトインタイプはきれいに納まるが金額が高い。何しろ既存の移設費用しか補償されていない現実がある。手間はかかったが壁掛け式で18畳タイプの大きな容量のものを直接見えない仕掛けにして現場で納めることにした。
2007年4月19日
展示室の天井を張る。原則は再使用なのだが、うまく剥がれず割れてしまう。塗装してから張る話もあったが、実際はなかなかうまくいく方法でも無い。埋め込みのライティングレールは今回、大倉さんからの指示もあって壁面から約80センチ離してこれまでよりも距離をとった。
2007年4月23日
左官屋さんに玄関の三和土(たたき)の土を新津の金津峠や田上あたりに探してもらったが意外と黒くて困った。以前はもっと柔らかい赤っぽい感じだったと言うが、掘り尽くして下層部分になったら黒くなったとのこと。さてさて、土探しにもまだ時間がかかりそうだ。


2007年4月28日
今日は旗野住研の給料日。現金手渡しで簡単なミーテングをやる。その後で昔はよく呑んだものだが、みんな歳をとって危なくなってきたのでいつの間にかやめてしまった。大家の幸田さんとの契約書には完了引渡しが4月30日とある。正直に詫びるしかない。実は一週間前の21日から大工を2人増して5人体制で臨んでいるのだが、絵屋の翌日に上棟した新津の46坪の現場が終えたというのに30坪に満たない絵屋はまだ先が見えないでいる。すでに今日現在で大工手間が45人オーバーしているのだ。ギャー!胃のあたりがチリチリする。消毒をせねばなるまい。勿論、その旨は職人のみんなにも報告するのだが、間違っても現場の大工の責任ではないのだ。
2007年5月1日
応援組の二人からは二階を集中的にやってもらっている。当初、予算のこともあり二階は新建材も使ってコストを抑えようと建築家の純一さんとも話していた。が、いざ現場に立つと新建材などとても使えない雰囲気なのだ。妙案として、当社の工場にある杉の縁甲板や下見板の在庫を新建材並みの価格で流用したのだがどこも足りなかったのである。お陰で見学に来る皆さんには「二階のほうが良くなったじゃない」と褒められたりして評判は良かった。
2007年5月2日
明日から連休が始まる。当社の職人頭で絶対的に信頼がおける現場親方の上松に言われた。「どうしたってあと一週間はかかるぞ」実は私も内心その覚悟はしていたのだ。大工が月半ばまで居るということは、完了引渡しは今月末になるだろうと読むしかなかった。
2007年5月7日
純一さんも古戸や古材を提供してくれたり、塗装や和紙張りで積極的にローコストにむけて臨んでくれていた。ただ思い余って現場泣かせの事態も生まれることもあった。例えば物販の陳列棚である。出来上がってみればなんとも味わい深い「しょっぺ店研究家」でもある純一さんらしい代物なのではあるが、工場の加工機や職人の刃物はボロボロだ。近頃では私も純一さんのような立場にもいるのだが、現場あがりの人間でもありなんとも複雑な気分になって、またもや胃を消毒せねばならないことになる。
2007年5月12日
みんなで土壁を塗る。子どもたちも加わって賑やかに楽しくやれた。結局、展示室側の土壁は京都から取り寄せた。問屋もこのへんでは初めてと言うほど随分高い買い物だった。原則論としては地元の土でまとめるべきと思っていたが、展示の具合や絵屋の顔の部分でもあるので、三和土(たたき)もそうだが、まあ仕方あるまいと思って黙った。
2007年5月18日
ようやく大工仕事を終えた。あれからまた30人もかかった。少しホッとするが、これから精算書をつくらねばならない。また胃の消毒も必要になる。
2007年5月26日
先週のみんなでやった和紙張り作業の残りを半日がかりで終えて、午後から引越し作業に移る。その晩は消毒が過ぎたのか、少々酔いも深く疲れた・・・。
工事を終えて
 お陰さまで、はじめて経験する解体移築工事をなんとか終えることができた。恐る恐る精算書をまとめてみる。解体工事もすべて含めて、坪当たり60万円ほどかかっていた。契約額よりも200万円も超過している。あらためて各協力業者に値引きをお願いしたり、当社の在庫品はすべて無料にしても100万円ほどオーバーすることになった。
 5月30日、契約違反の精算書を持って、その責任の取り方を覚悟しながらも大家の幸田さんを訪ねた。すべての説明を終えて間もなく「いやぁ、良くまとめてくださいましたよ。あなたも板ばさみで大変だったでしょう」と慰めてもらった。「仕事ぶりも人柄もよくわかっていますので、その超過した百万もお支払い致しましょう」なんと、太っ腹な大家さんなのだろう。お金のこともさることながら仕事ぶりを褒めてもらったことが何よりも嬉しかった。
 正直なところ、最初から見積りには自信が無かった。仕方ない、一般住宅並みの見積書をつくったが、見えないところが余りにも多すぎた。「まあ、なんとかなるだろう」「やらねばなるまい」の心境だった。6年前の開廊時とは違ってそれぞれの気心も少しはわかったつもりではいたが、代表の大倉さんも建築家の純一さんもいざとなるとなかなか「イチガイコキ」で我が侭である。それでもご本人たちはまだまだ控えめのつもりでいるようだ。まあ、結構私も現場では変更を出して職人に喜ばれてはいないのだが、レベルが違うと大工に言われた。どうであれ、長い時を積み重ねた建築物の包容力は凄いと思う。われわれ如きのナンダカンダは小手先の事柄に過ぎないのだろう。酸いも甘いも噛み分けてきた長老のような絵屋の建物は心豊かに何でも受け入れてくれたような気がする。
 解体工事の頃、幸田さんが瓦も再使用するのか尋ねられた。ご自宅の安田瓦が葺き替えをして間もないのだと言う。それでも「みなさんは美的感覚で敢えて100年前の瓦を再使用されるわけですよね」と笑って理解して下さった。こんな大家さん、いるだろうか。絵屋の玄関前に移植された立派な松を見てほしい。私の超過した精算額の倍もかかっていると言う、幸田さんご自慢の外構工事である。
 皆それぞれの思いがタップリと詰まった、古くて新しい新潟絵屋が再オープンする。個人的にはちょっと美しくなりすぎて高級割烹のようなところが気がかりでもあるが、普通のひとたちがたくさん出入り し、時の積み重ねとともに、内も外も絵屋が目指すところの味わい深 い画廊に自然となって行くのだろうと思っている。
 旗野住研にとっては手に余るほどの大仕事ではあったが、お手伝いで きたことを心より感謝しています。ありがとうございました。