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2002年1月26日 新潟日報 掲載


 

独創の画家「布川勝三 画集」が刊行
独自の世界を支えた人々

大倉宏(美術評論家)

 昨年11月、新潟で布川勝三の画集が刊行された。60点ほどの絵をカラーで収めたささやかな本だが、とても語りかけてくる。
 布川は1999年に94歳で亡くなった新発田の画家。十代で画家を志すが、その後絵を中断。四十代の終わりころに再開して、東京の美術展(太平洋美術会展)に出品し会友となるが、六十代からは主に新潟での個展で発表した。
 画集はこの六十代以降の、色調の暗い絵を中心に構成される。序文や作品論は、この時期に布川の絵と人に引かれて親交を結んだ新発田と新潟の画家や画廊主が執筆している。
 どの文も、画家への敬愛の情をにじませながら、冷静な批評意識を忘れていない。自費刊行の画集にありがちな「誉めあげ」が抑えられているのが、本の力を強めている。
 自分の絵に、だれより厳しかったという生前の画家の姿勢の反映でもあろうが、客観的に受け止めることで、布川の絵をより広い場所に放とうとする編集者の意識を、私はむしろ感じる。
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 東京の団体展に出品せず(属せず)、新発田や新潟という土地で、自分独自の絵を描こうとすることの困難を、布川自身がひしひし感じ続けていたことは、紹介されている画家の言葉からも聞こえる。
 なぜかといえば、日本の地方では独創を中心価値として、絵を受け止める広範囲の鑑賞層がない。この価値観自体、実は近代に外(西洋)から持ち込まれたものだが、それは西洋の配電盤となった東京経由で、団体展を加圧器として、各地方にもたされた。日本独特の急激な近代化の一面だが、その結果、地方の日本人一人一人がその価値観を自らのものとして育てる余裕をもつ以前に、団体展の権威のみが先行して人々の意識に入りこむことになる。
 「無所属」で、個展のみで発表することが、何らかの手応えを画家に与えるためには、権威抜きに、絵に自発的に反応する目が少なからずなければならない。布川のように、闇の色一色に塗り込めたような、独自だが室内の装飾には不向きととられやすい絵に、新潟や新発田の鑑賞層は、どのような独自の反応を返しえただろうか。
 独自に独自で応える人々が、けれど少数ではあれいたという事実を、この画集は私に伝える。作品の選択と配列。印刷、シンプルで神経のいきとどいたレイアウト、熱すぎない文章などが、画家の仕事を受け止めた人々の独自の強さを物語る。困難ではあれ六十を過ぎた画家がそれまでの自分を全否定するかのような転回を行い、これだけの質の絵を新たに作り出した背景には、こうした人たちの存在があったのだと思う。
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 画集刊行とあわせて、新潟市のアトリエ我廊で遺作展が開かれたが、会期中に700冊刷った画集のほとんどが人々の手に渡るほどの反響があったという。アトリエ我廊は「現代美術」(言い換えれば「無所属」の)美術家たちに発表の場を一貫して提供してきた画廊だが、前身の「アトリエ画廊」時代に布川の個展も開いている。
 個の仕事を個が受けとめる空間を、同様の困難のなかで持続させてきた時間の蓄積が、豪華ではないが質の高い画集を生む、ひとつの力になったのだろうと想像する。