n e w s p a p e r
2003年9月30日 新潟日報 掲載

「大地の芸術祭」を終えて
 

わくわくからしっとりへ
土地と作品、呼吸ピタリ
(7月20日〜9月7日 大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2003)

大倉宏(美術評論家)

 9月7日に終了した大地の芸術祭。
 前回の印象がわくわく、なら、今回はしっとり。イベントも成長するのだ。
 地元との協働が話題となったが、外から出かけた者には、そういう作品以上に、場所を読み込み、作りすぎず成功した個々の作家の目が光って見えた。
 樹上の茶室や新設の花園を山頂から見下ろす作品は、眺望そのものをふるまう(場所の選択眼がいい)。旧道のトンネル内に詩の朗読テープを流すだけの作品や、コールテン鋼の垣根で河岸の風景にリズムを吹き込んだ庭も素敵。草の生えた登り窯の胎光で、揺らぐ陰影を呼吸しながら、白い少女たちと聞いた雨音もよかった。
 「祭」なのに、広さのためどこに行っても人はまばら。ひっそり会えたのが心地いい。
 松之山の「夢の家」も健在。賑わっていた。近くにできた「収穫の家」のインスタレーションが上質。空き家となった民家を使った作品が増えたのも特色で、「夢の家」の傑出には及ばなくても、印象に残るものは多い。土地が作家という異物を迎え入れはじめた兆しのようにも思えた。
 前回低調の十日町が今回は面白く、レンタサイクルで1時間の予定が半日かかって、覆された宝石をもらった気持ち。映像を使った作品も場とうまく呼吸しあっていた(「どれもこれも」、旧滝文内の「米雪」など)。
 場所を丁寧に読み込んだ作品の増加とともに、今回は場所を一変させる大きな建物が十日町、松代、松之山に作られた。芸術祭と従来の公共事業がクロスオーバーした結果は、成功だった。内容や今後の利用に危惧を感じさせる部分はあるが、風景が新鮮。独特ながら場所への配慮が感じられ(特に松之山のキョロロが秀逸)、役場に代表される過去の凡庸な近代建築群に比較すればずっと美しい。
 個人的なベスト「夏の旅」も、建築と環境について考えさせる作品だった。
 場所は山奥の集落の廃校。校庭に素朴な舞台を作り鳥追いの目くらましテープをめぐらし、廊下や教室に簡素なカーテンを下げ、落ち葉を散らす。ささやかな物だけでつくられた場の印象はささやかなまま、深い。
 コンクリートはぼろぼろ。山里の鉄筋校舎は、白さと異物感で村人に当初まばゆく見えただろう。新しさが命で、老いを禁じられた建築が老い、環境と異質な硬い壁の中を通過する子供たちも消えた。残った虚ろの中で建物が、ふっと息を始める。装置はその小さい音に耳を澄ますよう誘う。場所を無視し画一化されたモダニズム建築の悲しさを見据えながら、いつくしむような視線の記憶が、放りこまれた種のように、動いている。