n e w s p a p e r
2004年4月27日


 

オンリーワン

串田良方展
(2004年4月27日〜5月23日 柏崎市・ギャラリー十三代目長兵衛)


大倉宏(美術評論家)
 

 柏崎高校で1950年から25年間、美術教師を勤めた串田良方を知る人は、柏崎に今も多いに違いない。その柏崎市で、串田さんは孤独だったろうと書くと、その方々に叱られるかもしれない。だが串田さんに限らず、戦後の30年間という時期に、日本の地方都市で、いい画家たちは、みな一様に孤独だったのではないだろうか。
 串田さんの生まれた大正から昭和初期、油絵(洋画)を描くことは、自由と個性という価値に目覚めるという意味を持っていた。串田さんが10代で描いた油絵には、他の誰でもない、自分というフィルターを通して外界を見つめる興奮、喜びが、生き生きした筆使いと、深い艶を帯びた発色に輝いている。
 東京美術学校(今の東京芸大)卒業後の戦争末期に応召した串田さんが、上海の病院で画家の靉光(あいみつ)と偶然ベッドが隣り合わせになり、その死を看取った話は、洲之内徹の「靉光の死を見届けた人」(『きまぐれ美術館』新潮社 所収)に書かれている。串田さんはその靉光や長谷川利行のことを学生に話すことがあったらしい。靉光も長谷川も、徹底して自分の目で世界(内界や外界)を見つめた画家で、誰の絵とも違う彼らの絵は、それゆえに死後になって評価された。

 自分だけの目で見つめることが、画家を孤独に追いやることになるのは、自由な目で見つめられ、描かれた絵を、同じように自由に、自分だけの目で見ようとする人たちが、画家以上に少数だったからだろう。白樺派に端を発する東京の美術運動は、個性的に見、描く画家たちを全国に生み出したが、その絵を個性的に受容する観衆までは生み出さなかったし、戦後もそれは同様だった。
 戦後一時東京の公募展に出品した串田さんは、その後絵から離れ、晩年になって抽象的な作品を数多く描いた。そこには、あの10代の串田さんの目の興奮の甦りと言っていい輝きと、生気が感じられる。
 串田良方を靉光や利行に伍する画家だと言うつもりはないし、またその必要もないだろう。くすんだ色調の底に、不思議な蠢きときらめきの揺れる画面を見ていると、ただここには確かに一つのオンリーワンが、一人の個性的な、いい画家がいたのだと感じる。
 串田さんを知る人も知らない人も、柏崎に新しくオープンするこの画廊で、それぞれのオンリーワンの目で絵に会ってくれたら、素敵だと思う。


自画像
串田良方(くしだ よしかた)
1917(大6)―1974(昭49)

上越市に生まれる。
小学生の時、御大典記念絵画展で秩父宮杯を獲得。
1940(昭15)年 東京美術学校油画科卒業。
1944(昭19)年 徴兵され中国応召中発病、上海病院で靉光(1906―1946)と同室となり、彼の最期を看取る。
復員後の1946(昭21)年 佐渡高校に赴任。
1950(昭25)年から約25年間柏崎高校に勤務、後進の指導、育成に尽くした。