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2004年10月22日 新潟日報 掲載


 

生地での紹介努力実る

東京で初の佐藤哲三回顧展
佐藤哲三展(2004年9月25日〜11月7日 東京ステーションギャラリー)
佐藤哲三展(2005年1月25日〜3月21日 神奈川県立近代美術館 鎌倉)


大倉宏(美術評論家)


 東京駅にある美術館、東京ステーションギャラリーで、佐藤哲三展が開かれている。佐藤が44歳で亡くなってちょうど50年。東京では1969年の銀座現代画廊での展覧会以来35年ぶり。美術館レベルでは初の回顧展となる。
 新潟では1970年、85年に県美術博物館ほかで、95年に県立近代美術館で大回顧展が、88年には新潟市美術館で佐藤指導の児童画と中期作品を紹介する展覧会が開かれた。また佐藤が生涯を過ごした新発田の「画廊たべ」でも没後4度の哲三展があり、生地での地道な紹介努力が、今回の東京展の一つの伏線になったと思う。新潟の催しのいくつかに携わり、関わった一人として感慨が深い。
 今回の展覧会では素描や写真資料に筆者未見のものがあり、幻の作品と言われる「機関車」(1934年)が陶芸家河井寛次郎の手に渡ったことを示す手紙が展示されたことも収穫だった。
 加治村時代の児童画も多数紹介され、カタログでも少なからぬページが解説に割かれた。総じて佐藤の生涯の全体像を未知の鑑賞者に伝えようとする努力の伝わってくる内容だ。
 四室を使って紹介された佐藤の絵の変貌は、改めて劇的だと感じる。そこには画壇=東京の美術団体での流行や趨勢の影響以上に、新潟という場の社会の現実と変化に、画家が全身で関わろうとした試行錯誤の反映であるように見える。
 それは画家として危うい道を彼が歩いたということで、作品は所々で意外なほど平板な表情に陥ってもいる。しかしその困難な道程の最後に登場する晩年の風景画は、ほかのどこにもない、きわめて独特な風貌を持つ。
 会場の最後に掛けられた大作「みぞれ」(1953年)の前に、やはりしばし佇んでしまった。もう何十回見たか知れない絵なのに、たった今、私の目の前で、視線の刺さった場所から、次々に絵が生成し始める。荒涼とした風景のこの不思議な、激しい生命感は何なのだろう。佐藤哲三は、まさにこの一点を生み出すために生きた画家だったとさえ、ふと言いたくなる。
 「みぞれ」をピークとする最晩年の風景群は、明るい東京の一画から山向こうの濡れた平原に直にうがたれた穴のようだ。それらはまた、東京中心に語られる近代美術史に、入れられたばかりの、鋭く美しい傷か裂け目のようでもある。


「みぞれ」1953年 油彩、カンヴァス  60.5×133.0cm 個人蔵