n e w s p a p e r
2005年9月10日 新潟日報 掲載


 

厳しい内証の風景

――林哲夫展に寄せて
(2005年9月12日〜20日 新潟絵屋)


斎藤健一(詩誌「穀物」編集人)
「燈台」 2005年 油彩、パネル
36.5×51.5cm

 京都の上桂に住んでいる林哲夫をぼくが訪ねたのは、9年前のことだ。
 電車をおりて、公衆電話から連絡をしたが何回かけても話し中であった。
 この街は「林」の表札のかかった家が多かった。
 ようやく探しあて、玄関で名前を告げると林さんが微笑をたたえてそこに待っていたのである。
 すぐに階段を先になり、彼はトントンと軽い音を立ててぼくを案内してくれた。みると彼の足は、はだしであった。6畳くらいの2階の部屋がアトリエとなっていたが、小ざっぱりとした一室だった。
 絵と詩の話を半分ずつくらいしただろうか、机の横に積んである雑誌を4冊、ぼくの膝の前に林さんは両手で持ってきた。
 「これ、斎藤さんに送ってあった本でしたか」
 表紙をながめると彼の絵が描いてある手作り本である。
 林さんの絵は、自己の意識経験を観察することに徹しているがゆえに厳しい内証を感ずるのである。
 つまり、表現する者がおのずからかかえる感情や心理や他者との関わりの中からこの作家が挑むところの体現なのだ。
 ぼくは、覚えている。
 林さんが畳の上に座り、さりげなく語りかけた言葉のひとつひとつが素朴なままで、そして気がつけば、ぼくの詩について好意と理解を寄せてくれた友情を。
 彼の活動は絵画のみにとどまらない。
 古書への愛情は誰よりも深く、しかも広く東西のその作者作品を読破し、鑑賞し、文学へと縦走するのである。
 「古本デッサン帳」は名著だ。
 今回の個展は風景画ばかりを並べます。と本人から手紙をいただいた。
 近作、「燈台」は無限の空を背景に右下にやや古風な燈台のすがたが描かれている。そこからは光が放たれているのかどうか判別ができない。
 潮風で長い時間、洗われたようなコンクリートの肌とガラス窓。燈台は過去をさかのぼるために海と陸の位置づけとしてあるものだろう。
 昼と夜の意識を超え、光と闇の物理的事象をまたぎ、そこに燈台が存在する。
 林さんの作品は思惟が垂直にめぐらされているのだ。