「東京ノイズ」あとがき

大倉 宏  


 20代後半から40代半ばにかけて書いたものから収録した、私の最初の評論集。
 書くことで、巡ってきたモチーフは、フェアということかも知れない。
 例えば新潟と東京は、数年前に終わった20世紀という時代、フェアな関係にはなかった。そういうアンフェアの実感できる場所に、潜り込もうとする傾向(病癖?)が私にはあり、このような病人には、新潟はこの20年、妙に居心地のいい町でもあった。
 本書の(1)、(2)の頃、「新潟に住む心地」「外観のにいがた」など、景観批評の連載を新潟の雑誌や新聞にした。そのあたりから新潟の町屋や下町に関心が向き、いろいろあったなかで、かなり私も変わった。
 アンフェア(不公平)は怒るべきもの、悪だけれど、そういう悪も結構いいではないかと、不思議なことに、最近は感じることがある。
 数日前、新潟市民芸術文化会館(芸文)でコルヤ・ブラッヒャー独奏のビバルディの「四季」を聴いた。癖ありげな黒装束の男13人の真ん中に立つコルヤが、盗賊団の首魁か、猛獣使いの風情で弾くバイオリンは、鞭のようにビートがきいていた。他の男たちは低く唸り声を上げ、その一振りごとに、円を描いたり、火の輪をくぐったり。ソリスト級の奏者たちに吠えかかり、威嚇して従わせる(ように見えた)コルヤの悪党ぶりが素敵だった。
 「東京建築」家、長谷川逸子設計のチープな内装の芸文のアリーナも、夕暮れのロビーも、がらんとした屋上階の休憩室も、そこから見える空中庭園も、黒くなり始めた東の空も良かった。
 東京から来た越智俊一さんにこの日、表紙のデザインと組版の見本刷を見せてもらった。
 こんなふうに、アンフェア(?)も呼吸して、このごろ新潟の時間が濃い。

 収録した文について。
 (1)は新潟市美術館に勤めていた時期の、(2)・(3)は美術館を辞めてフリーになった頃のもの。「永遠の矢」は担当した展覧会のカタログに書いた。「雪」は今年亡くなられた田部直枝さんが気に入って、田部さんの画廊の小冊子「絵」に載せてくださった。「世界の始まる地点」の方は、文化現場の小川弘幸さんが「月刊風だるま」に3回に分けて掲載してくれた。「イノセンスへの郷愁」は『洲之内徹の風景』という回想集を編集した時、春秋社の松本市壽さんに依頼されたもの。「高橋由一の見たもの」「詩人という孤独」は「同時代」に連載中の「日本の近代美術の『歴史』・ノート」の最初の2編。西脇順三郎については江森國友さんの推輓で「三田文学」に書かせていただいたことがあり、それが「詩人という孤独」のベースになっている。
 (4)は比較的最近(この頃から、私はかなり早く書けるようになった)。古い建物狂いになり、大正時代の町屋を改装して新潟絵屋を仲間たちと始めた。「東京ノイズ」は「あいだ」の福住治夫さんから、「個性と障害」は「構造」の門田秀雄さんからの依頼。「夢を見る家」は「てんぴょう」に書いた批評。
 同誌の初代編集長、越智俊一さんから、これまでの評論をまとめてみませんかと話のあったのが今年の春。大変手間取って迷惑をかけてしまった。越智さんと現編集長の松浦良介さん、デザイナーの柴田昌房さん、私のくどい文に(特にT、Uの頃)しつこくNGを出し続けてくれた妻の大倉則子さん、絵屋助っ人の柳政利さんと、絵屋スタッフの企画委員の越野泉さん(2人には細かな作業でお世話になった)に感謝します。

2003年10月