夭折の画家たち ―新潟の作家たち その3―
新潟市美術館 1987年1月6日〜2月15日

佐藤清三郎

 佐藤清三郎の遺作展は、新発田で2階、新潟と東京で一度ずつ開かれている。いずれかの会場に足を運び、その作品(素描)の新鮮な魅力に目をみはった人も少なくないのではないだろうか。自画像、手や足、路地、掘割、川岸の風景、市中で働く女たち、子供など、日々の生活のなかで、立ちどまり、見回しさえすればそこにあったという身近な題材ばかりを、誇張をまじえず、むしろ正確さを心がけ写しとったこれらのデッサンが、なにか不思議な力で見る者の心をとらえてしまうのはなぜだろう。
 年譜をみればおわかりのように、佐藤清三郎は職業画家ではなかった。高等小学校を卒業し、給仕として銀行に入り、第2次大戦末期、33歳で召集されるまでそこで働き続ける。油絵や素描は、この銀行員としての生活の合間や、通勤の道すがらに描かれたものである。油絵の作品が県展に何度か入選しているが、その場合も名を変えて出品するという工合に、画家としての自分を主張することはむしろ控え目であったようだ。しかし、考えてみるとそれは、アマチュア画家であることに、彼が必ずしも自足しなかったことの裏返しの表現だった。ととれなくもない。事実、残された作品、特に数多い素描が示す観察、描写への集中、持続力は通常の日曜画家の水準をはるかに凌ぐ。上京し、本格的に絵の勉強をしようかと思い迷った時期もあったらしく、また1935年(昭和10)頃には、東京に三芳悌吉を訪い、地方にいて独学で絵を学ぶ方法、心得などを尋ねたりもしている。絵画へ寄せる情熱に並々ならないものがあったことは間違いない。
 佐藤清三郎の訪問を受けたとき、三芳氏は自らの経験を引いて、自画像、手、足などを繰り返し描くこと、路上でのタイムスケッチ(クロッキー)などを学習の方法として勧めた。結果からみると、佐藤はまさにそのとおりを実践したわけで、とするなら、これらの素描は、やがて画家としてひとり立ちするために自らに課したひとつの修練だったと解することもできる。残されたデッサンの数々は、佐藤がその課題に、実に真摯に取り組んだことを物語っている。佐藤の絵が、見る者の心を捉えるのは、なによりもまず、対象を見つめるまなざしのこの比類ない生真面目さ、ひたむきさによる、と言っていいだろう。が、彼のこのような没入の姿勢は、いわゆる文学青年タイプのそれとは異なる。文学的気質の人間であれば、対象を見つめる場合、否応なしに主観的連想の数々が侵入し、画面に自然ににじみでてきてしまうはずだが、極端な言い方をすれば、佐藤清三郎にはそれがない。少なくとも素描に関して言えば、主観的イメージの要請によって意志的に対象が歪形されることがなく、だから、画面が不思議に澄んでいる。描かれた対象が直にわれわれの視線に触れてくるように感じられるのはそのせいである。まなざしが冷たく即物的だと言うのではない。画家の眼はあくまでも熱いのだが、その熱は客体としての対象を、いわばそのもの自体として(夾雑物を介することなく)見つめることに注がれているのだ。
 この特徴は、佐藤清三郎の生来の性向に由来するところもあるようだ。死後、彼の蔵書を整理した友人は、それが絵についてのものと社会科学に関するものの二種類に限られ、それ以外の雑書がほとんど見られないことに気付いて驚く。絵画と社会科学、このふたつは、佐藤清三郎にとって、おそらく客観的現実の認識という共通する目的を有する、二様の手段であったのではないか。
 画を描く人間としての佐藤清三郎にとって、この客観的現実とは、地方都市で働く職業人、一市民としての生活の中で日常眼にすることのできた情景、人々、もの等であったわけで、そこには「客観的現実」という言葉が発する一種の観念臭は感じられない。社会科学に関心があるといっても、彼自身は観念や理論をもてあそぶ人間ではなかった。体質としては、彼は本来「視る人間」であった、と言っていいだろう。
 素描する佐藤清三郎のまなざしは、あくまでも孤独だった。が、この孤独な営みの底で、対象をいちずに見つめ、スケッチブックを鏡のようにとぎ澄ますことにより、個人の感情や主観を越えた次元で、「眼」と対象はひとつの共感によって結ばれる。佐藤の絵の画面が、不思議に明るく暖かいのは、おそらくそのためである。

 

佐藤清三郎 年譜
1911 明治44 
4月21日、父 佐藤清吉、母ミツの長男として新潟市に生まれる。姉2人、妹1人、弟1人があった。
1918 大正7(7歳)
新潟尋常高等小学校に入学。在学中は、少年野球の選手(ポジションはセカンド)として甲子園にも出場した。絵を描くことも好んだ。
1926 大正15(15歳)
新潟貯蓄銀行に給仕として採用される。(後に正式採用となり、最後には支店長代理をつとめた。同銀行は、在職中に第四銀行に併合される。)
勤務のかたわら、絵を描く。銀行の仲間たちと、映画、レコード鑑賞等を楽しみ、社会思想の研究会にも参加した。絵画の師は、ゴッホ、ミレー、セザンヌ等の画集であった。
1935 昭和10(24歳)
5月、父死去。家督をつぎ一家の生計を支える立場となる。
神戸清の名で出品した「露地」が、第6回新潟県展(11月2日〜10日 イタリア軒3階ホール)に入選する。
この頃、東京に三芳悌吉を訪ね、教示をこう。三芳は、自身が新潟時代に独学で絵の勉強をしていたころ、毎夕大理石像をデッサンし、路上ではタイムスケッチ(クロッキー)などした経験を話し、自画像、足、手などを繰り返し描くよう勧めた。
1938 昭和13(27歳)
神戸清の名で、第8回県展(10月11日〜、古町6新潟ビル2階)に入選。
1941 昭和16(30歳)
母、病気で倒れる。姉妹はすでに他家に嫁し、弟と3人暮らしのため、炊事などの家事もおこなう。
1942 昭和17(31歳)
神戸清の名で出品した「梨」「鉄瓶」が、第12回県展(11月12日〜18日 小林百貨店)に入選。12月、田中ナホと結婚。
1944 昭和19(33歳)
7月、弟戦死。
1945 昭和20
1月、第2国民兵として舞鶴海兵団に入団。
4月13日、横須賀武山海兵団で、クループ性肺炎のため死去。享年33歳。油絵、堀端や信濃川縁の風景、働く人々、自画像等の多数の素描が残された。
6月30日、遺児清子生まれる。
1946 昭和21
10月21日〜24日、白根市の民衆文庫で遺作展が開かれる。
1972 昭和47
10月15日〜11月10日、新発田の田部直枝(銀行員時代の友人)宅で「佐藤清三郎遺作展」が開催される。
1973 昭和48
9月17日〜29日、東京銀座の現代画廊で「遺作 佐藤清三郎素描展」が開催される。
1978 昭和53
11月16日〜21日、新潟市のアトリエ画廊で「佐藤清三郎遺作展」が開催される。会期中の18日には「佐藤清三郎を語るシンポジウム」が開かれた。
1985 昭和60
10月25日〜31日、新発田市の画廊たべで「歿後40年佐藤清三郎展」が開催される。

出品リスト
作 品 名 制 作 年 材  質 寸法(cm)
露地   油彩、カンバス 70×50
露地   コンテ、紙 33×23
自画像   水彩、紙 33×26
男の顔   鉛筆、紙 30×21
自画像   鉛筆、紙 28×29
自画像   鉛筆・インク、紙 18×13
自画像   鉛筆、紙 32×23
右手   コンテ、紙 23×32
左手   コンテ、紙 25×33
左手 1935 木炭、紙 24×33
  コンテ、紙 23×32
右足   木炭、紙 42×33
  鉛筆、紙 36×27
鉄瓶 1942頃 油彩、板 24×33
1942頃 油彩、カンバス 17×45
  クレヨン、紙 20×29
なすとそら豆   パステル、紙 23×35
えんどう豆   パステル、紙 21×35
かごの中の野菜   コンテ、紙 21×29
  鉛筆、紙 20×28
夕方の梅の木   鉛筆・コンテ、紙 25×19
水を汲む女   コンテ、紙 25×32
水仕事の女   ペン・鉛筆、紙 19×23
水仕事の女たち   鉛筆、紙 22×31
船を曳く男   木炭、紙 33×25
芦を刈る人   コンテ、紙 33×25
草を刈る人   コンテ、紙 22×27
浮浪者   鉛筆・コンテ、紙 26×18
子供    水彩・鉛筆、紙 18×12
映画館   パステル、紙 23×28
風景   水彩・コンテ、紙 12×18
居酒屋   パステル、紙 12×18
屋台   水彩、紙 12×18
川岸風景   鉛筆・コンテ、紙 23×30
川岸風景   鉛筆、紙 23×28
昭和橋下   鉛筆、紙 23×28
信濃川   鉛筆、紙 23×28
橋下風景   鉛筆、紙 21×29
橋下風景   鉛筆、紙 24×30
川端   鉛筆、紙 25×34
自転車   パステル、紙 12×18
風景   鉛筆、紙 24×30
風景   鉛筆、紙 23×30
小屋   鉛筆、紙 18×24
郊外風景   鉛筆、紙 24×30
風景   油彩・クレヨン、紙 12×18
手/堀端(スケッチブック)   鉛筆、紙 11×15
コップと桃(スケッチブック)   パステル、紙 11×20
子守り(スケッチブック)   コンテ、紙 14×18
かぼちゃ(スケッチブック)   パステル、紙 30×21
クレーンのある風景(スケッチブック)   鉛筆、紙 25×31
川岸(スケッチブック)   水彩・鉛筆、紙 12×18
木/女(スケッチブック)   鉛筆、紙 25×19

※年譜の編集と解説文の執筆は大倉宏が担当した。