旧稿
※「白根民衆文庫」No.4(1946年10月)に掲載されたものを
 画廊たべ発行の「絵」No.14(1978年11月)に再掲された。
※文中タイホーとは佐藤清三郎の愛称

 
佐藤清三郎遺作展について
小島一弥

 タイホーと私について画をめぐる憶い出。

 彼の画は、それが何であるより、まず彼の自然と人間に対する深い愛情から生まれたものである。
 彼の画が現在ほとんど失はれてゐることはまことに残念なことであるが、残ってゐる一つ“露地”についていへば、これは彼の二十歳の頃のものであり、そんなにいい出来のものではないかも知れないが、ともあれ懸命に描き彼にとっては一つの出発点となる記念すべき作品である。暗い色彩と、花一輪咲いてゐないこの画面に、一脈の抒情ありとすれば、それはここに描かれたものが他ならず彼の生ひ立った環境に対する切ない愛情によって惨透されてゐるからなのである。長屋に暮す人々のよろこびと悲しみ、幼年の日への思慕、そうしたものをしみじみと感じさせるこの画が大好きだ、画なんてものはてんで判らないのだがと言って呉れた友達があった。いい理解者であったと思ふ。その率直な心をもったWKもタイホーを奪った同じ戦争でサイパンで戦死した。しかしみらるる通りこの画面には、そうした愛情をとりたてて他に強ひようとする何らの意図も現われていない。ただ観るものをその侭に現はしてみたいといふひたむきな素直な努力が営まれてゐるのである。
 そうした同じ成長が“鉄びん”にみられると思ふ。
 この“鉄びん”も彼の父や母が永年使ひ慣れた鉄びんなのである。天下の名器ではないが生活の垢のこびりついた代物である。ここへ来ると彼の描こうとするものへの突き込み方は以前にみられぬ激しいものになってゐる。抒情のあとを止めぬほどに彼の眼は鉄びんを万辺なくなでまわし、絵具はこれでもか、これでもかとなすりつけられるものである。「この鉄びん鉄でこしらえてあるくらゐには重く見えるだらうか」と幾度も彼は質問する。愛する鉄びんが薬缶ほどに軽くみえたとしたら、亡くなった父の前にも、もう画を描こうなんて望みは捨てなくてはなるまいとでも彼は思ったのだろう。あくまでも執拗な努力の記念である。
 彼の対象にあくまで忠実であらうとする生真面目な態度は、どうかすると画面に律動のない無味乾燥さを与へた。それから逃れようとする一つの試みが、“工場風景”の小品で、これは珍らしく画面に流れの出てゐるものである。幸ひのことには、こうした試みもがただの小才のわざに逃げてはゐない点である。
 彼の辿ってきた途がいい実を結んだ一つの一里塚が“梨”であると思う。対象に対するあくまで忠実ならうとする信念はゆるぎなく、しかも生硬さを脱して一応明るい自信をもって自由な気持で自然に接してゐる。これはいい作品であると思ふ。しかし彼はそこに自足してゐるのではない。苦難な途の一つの結実であったと同時に新らしい発足の一里塚となるものであらう。その頃彼は「梨一つ描えても それは今まで学んだ技術の総決算であるばかりでなく一切の生活体験、世の中に対する人生に対する今までに達した一切の世界観が凝集されたものでありたい」といふ信条を持して
ゐた。
 

「露地」1935年頃
 油彩・カンバス 74.0×50.0cm

「鉄瓶」1942年頃 油彩・ボード 23.5×33.0cm



「梨」1942年頃 油彩・カンバス 17.0×44.5cm


 憶ひ出ばなしは彼が“露地”を描くその前のことになるのだが、私にいろいろ画のことを啓蒙して呉れたのはそもそも彼であった。
 彼はミレーが好きだったらしい。私はミレーなんか女学校の図画の手本にある甘い画だと思ってゐた。しかし、アトリエから飛び出して広い明るい野外へ解放をもとめ、勤労者を描こうとしたバルビゾン一派に彼が共感を覚えたことはもっともなことである。そして私もまたエハガキ屋に飾ってある安手の晩鐘がミレーなのではないといふことを知った。
 彼のよく話題に上した名前は、テンブラント、クルーベー、ドラックロア、マネー、セザンヌなどであった。作者の苦労を知らない私の気易さは、目まぐるしいほどあれが好きになり、これが好きになった。マチスが面白かった。彼は私にマチスがどんなに偉い画家であり色彩と構成にどんなに苦心が払はれてゐるかについて丹念に教えて呉れた。しかし彼はマチスのように描こうとはしてゐなかった。彼は彼なりに画の世界に抱負と夢想をはらんでゐた。“芸術の虐殺”という題で描きたいと言った。何を考へたのかは今にして誰も知らない。またよく 額ぶちのない画 といふことを言った。それがどんな内容を意味する言葉かは、これもまた判らなくなったわけだが、私はいま常識的に、単なる応接間の装飾であるようなそんな画は描きたくないと考へたのだらうとだけ解して置きたい。

 彼の夢想や欲求はふくらんでいった。時として乱暴なまでに。しかし彼はそれについてあんまり語ろうとはしなかった、そして彼の画はちっとも乱暴にはならなかった。何よりも彼は頭の中で描こうとしなかった。いやほとんど出来なかった。眼の前にあるものをいかに正しく描くかが問題だったのだ。だから新奇ないろいろの意匠にはわずらはされなかった。ある時は彼もまた東洋画の線のすばらしさにひかれた。しかしそれはその線が対象を正しく掴んでゐると思ったからなのだ。彼の画は時に生硬でぎこちなかったであらう、独り合点もあったらう、しかし彼は決して身をかわして別な途に打開しようとはしなかった。才に身を売って上手をうつ術など思ひもよらぬことだった、行き詰ったら突き抜けるまでその途を追求するより他知らなかった。「先ず眼の前にあるものを正しく」描くことだ。私は最初に、彼は人間と自然に対する深い愛情から画を描いたと言った。しかし彼はそうした愛情をひけらかすために画を描いたなどと思ったらとんでもない間違ひだ。彼は正しく描きたいと希ったのだ。私はただ彼の取材と制作の態度を裏付ける一すぢの糸がその愛情だったことを言ひたいのだ。
 日本は暗い反動の時代だった。彼は人間がもっと自由になる明るい時代のことを思った。そしてどういふ画を描かねばならぬかを考へた。しかしどっちみち観たものを正しく描くより他に何もあるまいぢゃないか。そして彼は孜々として描いた。

 昭和二十年、日本の人民は自らの解放を自らの課題としなければならない新らしい時代が始まった。自由の息吹きにさらされた時、人々の成長は躍進する。自然と人間に対する深い愛情に貫ぬかれてきたタイホーの画が、人間解放の新らしい時代にどんなふうに自らを打ち出すだらうか。私は期待にふくれる。
 しかしそんな期待もすでに空しいものなのだ。いふてもかへらぬ愚痴である、彼は戦争の終る四ヶ月前、戦争のためにその命を奪はれたのだから。無名の画描きとして、ぎこちない未完成の画を残して。

 遺作数点をならべ、友達が集ってタイホーの憶ひ出を新にする。あらためて彼の生き方は立派だったと思ふ。
 そして、私はこんな小さな期待をもつ。
 誰か見知らぬ若い人がこの画をみて呉れる。素直な精進をみとめて呉れる。
 自然と人間に対する深い愛情に貫ぬかれたひそやかな生き方に共感を覚へて呉れる。そして新らしい時代にどう生きようかと考へる勇気を喚び起して呉れる。
 ちょうどタイホーが生きてゐたらそうすると同じように。
など考へることも見知らぬ若い人への希望だけではない。何よりもまず私にとって、タイホーの画といふものがそんな画なのである。
                             (1946年10月18日)


「自画像」鉛筆・紙 32.0×22.7cm

「町工場」鉛筆・紙 18.0×24.0cm

 

「街頭の魚売り」コンテ・紙

「草を刈る人」コンテ・紙 22.0×27.0cm