2000年6月
   

2000年7月の絵屋

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  2000年6月16日〜30日


自画像 鉛筆・紙  32.0×22.7cm


梨 油彩・カンバス 16.5×44.5cm
  

佐藤清三郎(さとうせいざぶろう)
■1911年新潟市西堀前通2番町に生まれる。新潟尋常高等小学校高等科卒業後、新潟貯蓄銀行に給仕として採用され、のち支店長代理までつとめた。35・38年、神戸清の名で県展に入選。東京に行き三芳悌吉に教示を請う。新潟では小熊金之助、佐藤哲三に批評を求める。42年結婚。45年応召し、4月横須賀でクループ性肺炎のため死去(33歳)。6月30日遺児清子誕生。死後、油絵、堀端や信濃川縁、働く人々、自画像などの素描多数が残される。46年白根市の民衆文庫、72年新発田の田部直枝(清三郎の同僚で友人)宅、73年東京銀座の現代画廊、75・85年新発田の画廊たべ、78年新潟のアトリエ画廊で遺作展。87年「夭折の画家たち展」(新潟市美術館)に作品が展示される。92年『ひたむきな目 佐藤清三郎画集』(佐藤清三郎画集刊行委員会)刊行。画集刊行を記念して新発田(画廊たべ)、新潟(アトリエ我廊)、東京(ギャラリー川船)で遺作展。

 1973年の秋、東京の現代画廊で開かれた遺作展で、はじめて佐藤清三郎の絵を見た。当時高校生だった私が、滅多に行くはずのない、銀座の画廊などという場所へ行ったのも不思議なことで、だからこそかも知れないが、印象はとても鮮明である。
 少し変色した紙に、食い込むように描かれた鉛筆の黒からたちあがる匂いに私は感動というより、動揺した。当時好きだったクレーやセザンヌの画集などの、見知らぬ世界の香りとは違い、それははっとするほど身近で、こう言ってよければどこか恥ずかしいほど身近な匂いだった。そう感じるのは見る私の側であり、絵そのものはむしろ堂々として、驚くほどの凝集度があった。
 佐藤清三郎は新潟の人である。昭和20年横須賀で戦病死(33歳)するまで銀行勤めをしていた。当時の県展に出した油絵が何点かあるが、展覧会に並べられていたのは素描で、それらは死後遺品として「発見」されたものという。ご遺族や田部直枝氏ら友人たちが戦後数十年大切に守り続けた素描を、現代画廊主の洲之内徹氏が田部氏の許で見て実現したのが、この展覧会だった。佐藤にとってこれらは、絵に静かな、真剣な情熱を傾けた彼の日記のようなものだったのだろう。
 描かれたのは自画像、手や足、自宅の一隅、堀端や市場の女たち、町工場、信濃川べり、郊外の湿地など、日々目にするものや、限られた休日などに出掛けられる範囲の場所だった。昭和10年代の新潟に暮らしていた人の、生活圏の風景である。その世界の匂いは、おそらく私の少年時代である昭和30年代ころまでは、かなりの程度残っていたものだ。モルタルたたきにたわしや木のたらい、ブリキ罐などが置かれた風呂場を描いた絵がある。こうした光景は私の子どもの頃、まだ方々の家にあった。それが急激に変わっていくのが昭和4,50年代の高度成長期で、現在、風呂はどこもユニットバスである。このような時代に、私たちは知らず知らず過去を貧しく恥ずかしいものに感じるようになっていったのだが、私がうろたえたのは、その無意識の感情を佐藤の絵に逆に照射されたためだったかも知れない。
 佐藤の絵には、働く人、貧しい者(ホームレス、乞食)を描いたものが少なからずある。それらの背景には、一種の「思想」の影響がないわけではなかったことが、残されたメモの断片からうかがえる。しかしプロレタリア美術など、当時の「思想の絵画」に見る貧しさや力強さの強調は佐藤の絵にはない。「思想」は佐藤の場合、自ら一人の労働者だった彼自身とその棲む世界を、深い共感と矜持を持って見つめるものとして意識させる作用をしたのではなかろうか。そのことが、正確な記録としての一面を持つこれらの絵を、同時に静かで、深い精神性をたたえたものにしている。 (大倉 宏)

 

 

 
 万代橋下 
 鉛筆・紙 
 20.5×28.7cm



   

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