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2001年3月2日〜10日

「日午」 1996年
 91×72.8cm

倉田久男(くらた ひさお)
■日本画家。長井亮之・松尾敏男・奥村土牛に師事。日本美術院院友。新潟県美術家連盟参事(元副会長)、新潟市美術家協会参事(元会長)、新潟県美術展覧会(県展)参与(元委員)。NHK文化センター日本画・水墨画講師。

新潟市は上大川前通りに住みついて100年以上はたつウチの一族を、「いやあ、タシロさんのウチはここに来てまだ新しいから――」なんて言えるのは、同じ上大川前通りに居を構えて400年もの歳月を経た倉田一族の久男さんくらいなものである。彼の絵にそこはかとなく感じられる「雅び」は、加賀藩士だった父祖の血ゆえか。
「最近、西行法師のことが頭に浮かびます」とおっしゃる倉田さんの、海外に取材した作品を多く集めてみた。下の略歴を見てもおわかりのように、倉田さんは生年をあえて書かない。常にこれから、が勝負なのだ。倉田さんの旅は、まだ始まったばかりだ。  (田代早苗)



 


2001年3月12日〜20日
 

「0053-000605」 2000年
油彩、綿布、パネル
63×45.5×3.5cm
 

野中光正(のなか みつまさ)
■1949年東京・鳥越生まれ。67年木版画・絵画をはじめる。68〜71年太平洋美術研究所、73〜82年渋谷洋画人体研究所、77年横浜国際船客ターミナルで木版画展、78年現代版画センター(東京)で木版画展、79年浅草公会堂展示ホールで素描展、81年竹川画廊(東京)で木版画3人展、84〜89年ゆーじん画廊(東京)で個展。89年新潟県高柳町に移住、紙漉を学ぶ。91年かやぶきの家(高柳町)で個展、同年10月の末に東京に戻る。91・92・94・95年ゆーじん画廊で個展。95年ウィリアムモリスギャラリーで木版画展、97・98・2000年ゆーじん画廊で個展。

野中さんが暮らす東京の下町、元浅草は浮世絵木版画と縁が深い。かつては多くの摺師、彫師が住み、今でも版木屋がある。
野中さんの木版画は純粋抽象ではあるが浮世絵版画の影響が色濃い。
繊維の長い和紙に馬簾で顔料をすり込むことで発色する、木版特有の透明感のある色彩は、版画だけでなく油彩作品にまで影響を与えている。
和紙は新潟・高柳の小林康生さんの手漉き。この紙と出会った野中さんは楮の刈り入れの手伝いに始まり、2年間、高柳に引っ越してしまい、紙漉きを学ぶ傍ら、様々な作物を作り、米までも作ったという。
自然・人工を問わず、物ができる過程すべてを体験しないと気のすまない性格はとうぜん、油絵の具も顔料から調合、パネルも自作する。
その精神こそが彼の絵を支えている。日常のすべての生活から得た感覚・体験・思考を色と形におきかえる。説明ではなく、現実と等価な「絵画の現実」を実現するために。
(ゆーじん画廊 和田章一郎)



 


2001年3月22日〜30日
 

「マフラー」 2000年
絹、草木染め(こぶな草、紅木ほか)
  

田代冴子(たしろ さえこ)
■1958年香川県丸亀市生まれ。大学時代にインドを半年間旅し、電気も水道も何もない生活を経験して感動する。帰国後、山の生活を決意。81年に長野県松本市の森島千冴子氏に師事、信州紬を学ぶ。青森、東京、長野、香川、福岡、佐賀、長崎で個展、グループ展など多数。ご主人は漆芸家で3人の姉弟の母。長崎県諫早市在住。

20年このかた、田代冴子は長野、岐阜、奈良と居を移し制作してきた。いまは長崎県の諫早に住んでいるが、どこでも山里暮らしなのが共通している。自然が豊かなことが彼女には必要なのだ。
この時期、誰も春が恋しい。「住む所が南になって暖かくていいね」とからかえば、「冬が厳しい所ほど春は豪奢なのよ」と田代は言うだろう。四季の喜びを良く知る彼女は、山から草花をもらい糸を染め、織りあげる。衣類や生活小物など、それらは使い込むほどに手に馴染み、素朴だが味わい深く豊かだ。彼女は自然の素晴らしさを、紡ぎだした作品を通して使う人に伝える媒介者なのだ。厳しくもやさしい自然を受け入れ、制作の糧とする作り手なのである。
田代は言う。「人の一生って長いようで短い。だから一つ一ついい仕事をしていきたい。すべては自分に返ってくると思うから」。僕はニール・ヤングの歌とヘッセの詩『ことわざ』を思い出すのだ。20年前、ガンジス川の岸辺で自分らしく自然な生き方を決心した彼女は、いま諫早の山からどんなふうに有明の海を見おろしているのだろう。
そちらの風は、もう暖かいですか?            (伊藤信行)

 

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