2002年9月 | |
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2002年9月2日〜10日 |
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辻 桃子(つじ ももこ) ■1945年横浜生まれ。早稲田大学1年生のときに俳句入門。楠本憲吉、高柳重信、波多野爽波に学ぶ。87年俳句誌「童子」を創刊、主宰。「桃子の俳句はがき絵塾」主宰、NHK・BS「俳句王国」主宰。著書に句集「桃」「花」「童子」「雪童子」など多数。 |
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俳句が熱く激しいものだなんて、誰が思うだろう。 特に有季定形と呼ばれる形式は、5・7・5の17音に四季折々の季語をひとつは入れなければいけない、最もオーソドックスなスタイル。実際、この形式に堅苦しさを覚えて「俳句なんて…」と敬遠する人も多いだろう。また反対にこの形式にべったりおもねって、幼児がぬり絵を楽しむように季語に「や」「けり」をくっつけて、何となく俳句らしきものをつくり続けることで満足している人も少なくない。 しかしこのがんじがらめに縛られた17音の小さな詩形式を、思いっきり遊ぶことを私は辻桃子さんから教えられた。 俳句って不思議だ。こんな小さな宇宙でありながらつくり手によってその姿をいかようにも変える。何よりも自分自身とそれをとりまく世界(=季語)をみつめることによって一瞬という時間が永遠へとつながってゆく。 今回は新潟絵屋が辻桃子の俳画で満たされる。彼女の一瞬一瞬の心のふるえが、生気をもって線や色に残されているのが、どう伝わるだろう。 (田代早苗) |
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2002年9月12日〜20日 |
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菅野くに子(かんの くにこ)
■東京生まれ。武蔵野美術大学油画科卒業後リトグラフ、エッチングの制作を続ける。1998年より手漉き和紙による制作を始める。2001年ガレリアグラフィカ(東京)にて個展。新発田市在住。 ←「少女」2002年 |
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菅野さんは長く版画(リトグラフ、銅版画)を作ってきた。 版画はいろんな工程を経て一枚の絵を作る。薬品を塗ったり、腐食させたり、プレス機のローラーを回したりと、「作業」というべきものが制作の過半。その微妙なずれが結果を大きく左右もする。 数年前、紙にじかに描くことをはじめて、とても解放されたと菅野さんは言う。線も色もヒトたちの仕草も、事実どこかはにかみながら、軽やかな口笛のようにはずんでいる。 しかし粗い和紙の面を押しつけたり、なすったり、つぶしたり、ひっかいたり、描くなかで、かなり複雑な「作業」がなされているのにも気づく。そのことが、絵にこまやかさと不思議な品をもたらしている。版画とともにいた菅野さんの長い時間が、絵筆のひだの奥ふかく入りこみ、やさしい息をしているのだ。(大倉 宏) |
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2002年9月22日〜30日 |
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田代冴子(たしろ さえこ) ■1958年香川県丸亀市生まれ。大学時代にインドを半年間旅し、電気も水道も何もない生活を経験して感動する。帰国後、山の生活を決意。81年に長野県松本市の森島千冴子氏に師事、信州紬を学ぶ。青森、東京、長野、香川、福岡、佐賀、長崎で個展、グループ展など多数。ご主人は漆芸家で3人の姉弟の母。長崎県諫早市在住。 ←ストール 2002年 |
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いったん機(はた)に渡された経(たて)糸は動かすことができない。それは定められた運命にもたとえられる。対する緯(よこ)糸は自由奔放で、どんな色をいれてもよい。縦の動かない色と、横の自由な色から織(おり)色が創られる。陰と陽、時間と空間の重なりに裂(きれ)は生まれるのだ。布は経糸と緯糸の二つの色を媒体とした色彩のマチエールだ。 田代冴子は、この夏に汗を噴き出しながら木綿、麻、絹の糸と布を染めた。主には草木、藍、柿渋で、秋からの創作に使うものだ。草木染めのオーガンジーは色相環を見るように様々な色が溢れていて、ビーズがあしらわれたストールになる。日差しの中、柿渋の木綿と麻に田代は意識を集中する。紫外線が柿渋の色味を創るからだ。いつもなら柿渋に媒染剤で鉄絵を描くのだが、秋の作品は草木染めの絹をパッチワークするつもりと話してくれた。太陽に焼かれながら田代がつけ加える。「夏の太陽が秋を創るのね。この布もお米といっしょ」。田代の時間と空間は秋を見ていた。日に焼けた強い腕が豊饒を紡いでいた。 (伊藤信行) ※出展作品/服飾品、バック、のれん、間仕切り、テーブルセンター、タペストリー等、自然素材だけで作られた作品を展示。 |
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