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2003年7月2日〜7月10日  
「画廊たべ」追悼
●画廊たべに飾られた絵・田部さんの写真や文章など
※Part1では作品の頒布はありません。

2003年7月12日〜7月20日
作家たちの現在
●画廊たべに縁のあった作家たちの現在の
 仕事と田部さんへの言葉

画廊の展示室で (写真/明星敏江)

田部直枝(たべ なおえ)
■1905年新潟市生まれ。銀行員時代の画家佐藤哲三、佐藤清三郎らとの深い交友が原点となり、退職後新発田の自宅一画を改装し、67歳で「画廊たべ」を開設(95年まで)。二人の佐藤のほか、山上嘉吉、東本つね、上野誠、高良真木、細野稔人、本間吉郎など多くの画家を年2〜3回のペースの企画展で紹介。日本家屋のギャラリーは画廊主の人柄とともに、多くの人に親しまれた。本年3月2日97歳で没。

さよならは決して言わない
 1965年の秋の夜、新発田市のある小さな喫茶店にみどりちゃん(田部直枝氏次女、渡辺みどりさん)とコーヒーを飲んでいた。店の壁に小さな油絵がかかっていた。「あれ哲(佐藤哲三)の絵でない・・・」「あら、二瓶さん哲三の絵好きなの・・・」と吃驚した様な声で彼女が言った。「大好きだよ。特に柿の絵がいいね・・・」「哲三の絵なら、父のところに沢山あるよ」こんどはこっちが吃驚した。近日中に連れて行ってもらう約束をして別れた。彼女が大学を出て水原病院に勤めていた頃の話である。
 厳格に育てられていたみどりちゃんを見ていたので、緊張して訪問した。ご挨拶をしてお顔を見たら、想像していたより老人に見えた。奥様もお元気でおられた。
 話が始まったら、田部さんが若い頃、小生の父と一緒に短歌の勉強をしたことがあったので、私のことをよく知っていたという様な話になりすっかり気楽になってしまった。
 いくらでも続けたそうな話をさえぎって、絵を見せてもらうことにした。
 押入の戸を開けたら上下二段に小品が山ほどあった。一枚一枚見せてもらっていたら、みんな欲しくなってしまった。
 この日以来、私は新発田へ行く度にお訪ねしては美味しいお茶を頂き、良い勉強をさせてもらい、個性豊かな人達とお仲間にさせてもらった。
 20年ほど前のある日、二人で話をしていた時、突然、哲三の絶筆の色紙を指して「俺もそろそろ歳になったから、この色紙二瓶さんにやるからもらって下さい。あなたの家にあればもっと大勢の人に見てもらえるし、俺も一番安心していられる」と言う。いくら固辞してもどうにもならない決然とした語調だった。では私が老人になったらみどりちゃんにバトンタッチするということで話は終わった。考えてみたら私も丁度、当時の田部さんの年齢になってしまった。そろそろバトンタッチしなければならないと思っている。
 40年という長い田部さんとのおつき合いの間、唯の一度も嫌な言葉も嫌な思いもしたことがなかった。何時でも優しくしていただいた。
 3月4日。田部さんの葬儀の日。「田部さん。お元気ですか」と大倉宏さんの弔辞の冒頭の言葉に私はハッとした。田部さんは死んでなんかいない。絶対死んでなんかいない。貴男が一番好きだった哲三が「幾度でも会ひ度ひ心一ぱいで」と書いているではありませんか。何時何処でも会えるじゃありませんか。田部さんは私の頭の中にも、心の中にも死んではいない。(二瓶文和・出湯温泉・石水亭主人)
佐藤哲三「色紙(幾度でも・・)」
1954年

死の床に臥した佐藤哲三が、
見舞いに訪れた田部さんに描いて渡したもの

絵画を身近なものに  「画廊たべ」田部直枝氏を悼む
里村洋子(「画廊たべ『絵のある茶の間』物語刊行委員)
 新発田市にあった「画廊たべ」の画廊主、田部直枝氏が亡くなられた。享年97歳。1905(明治38)年新潟市に生まれ、14歳で給仕として新潟貯蓄銀行(昭和19年に第四銀行と合併)へ入行。支店勤務時代に画家佐藤哲三、同僚で多くの素描を描いた佐藤清三郎と交流を持ったことが原点となり、銀行定年退職9年後に画廊を開いた。67歳のあらたな出発であった。
 画廊は自宅を開放したものだった。閑静な住宅地の中の、知らなければ通り過ぎてしまいそうな普通の民家で、茶の間、廊下、床の間なども展示スペースだった。奥の部屋には囲炉裏が切られ、そこでお茶をいただきながら居合わせた人たちといろいろなお話をするのも画廊を訪ねる楽しみのひとつ。
 「絵のある茶の間」そんな雰囲気がぴったりの画廊であった。
 運営は23年続いた。その間、氏が最も敬愛した2人の佐藤展を中心に、山下嘉吉、東本つね、上野誠、高良真木、細野稔人、本間吉郎をはじめとする多くの画家の作品を年2、3回のペースで紹介し、また、画廊を訪れた人の感想文で構成する画廊通信「絵」も55号まで発行した。おしまれつつ閉廊したのは1995年、不慮の火災に遭ったことによる。氏90歳の時だった。
 普通の暮らしを背景にした中で見る絵は不思議にどれも身近なものに感じられた。ご高齢田部氏がゆっくりいれてくれるお茶にくつろいだ。こんなふうに飾って楽しめばいいのだ。肩肘はって絵に対していた気持ちがふっとゆるんだ。
 そんな普段着のような居心地の良さに惹かれ、通い続けた者のひとりとして、こういう画廊主と画廊に出あえたことをとても幸せに思う。風情は今「新潟絵屋」に受け継がれ、通信「絵屋便」のロゴは田部氏の揮毫になる。

新潟日報 2003年3月7日

田部直枝を偲ぶ会
7月6日(日)pm2:00〜4:00
■会 場   新発田市民文化会館
      
 新発田市中央町4-11-7 TEL.0254-26-1576
■参加費   1,000円
■プログラム (1)追悼演奏/山本緑ほか 
       (2)田部直枝を偲ぶ集い
■主 催   田部直枝を偲ぶ会実行委員会
■問い合わせ TEL.0254-26-2918(斎藤)
申込み不要・直接会場へお越し下さい


● 
2003年7月22日〜7月30日
  

高橋俊明(たかはし としあき)
■1951年秋田県稲川町生まれ。77年、東京学芸大学大学院修士課程絵画講座終了。個展84−92年ときわ1画廊(東京・日本橋)、2002・03年K's Gallery(東京・銀座)ほか。84、86、87日本国際美術展、98年岡本太郎記念芸術大賞展、99、2001年NiCAF展などに出品。

←2003年 水性ペイント、板

高橋俊明氏は、ここ数年来、この青いシリーズを作り続けている。
角材を張り合わせて画面を作り、表面を焦がし、丸・三角・四角の穴を開けたり、表面を引っかいたりの加工をした後に青と黒の水性塗料をペイントする。そうした結構体力勝負の作業の結果である氏の作品であるが、「静謐―その彼方へ」という展覧会タイトルが、実にしっくりと似合う。
静かに作品と対面していると、深い神秘の森に迷い込んだ様な、幽玄な世界を感じることができる。あるいは、はるかな宇宙、夕暮れの海岸などを見つめているようでもあり、雄大な自然の広がりを感じることもできるだろう。ゆっくり作品たちと向かい合い、しばし、俗世間を忘れて、幽玄の世界に迷い込んでみてほしい。       (増田きよみ)
 
  

絵 屋 と ぴ っ く す
●5月17日。よく晴れた午後、新潟市美術館の講堂で、山口ヒロミさんの講演が行われました。重い障害を持って生まれた娘天音(あまね)さんの思い出を軸に、夫平明さんと発行された「あまね通信」に挿絵を描きだしたことから天音さんをモチーフにした絵や銅版画のシリーズが生まれたお話など、記憶をかみしめるように語っていかれました。「天音が私達を障害者の親に見事にしつけました」という言葉が印象的でした。
●同じ日の夕刻、絵屋近くの空き地で、舞踏家堀川久子さんとチェリストのトリスタン・ホンジンガーさんのパフォーマンスがありました。夕暮れの光のなか、チェロの音が刻む不思議なリズム、ゆったりした、開放感のある舞踏が場所をやわらかに奏で、観衆の心をそよがせました。そのあとは絵屋に移動。山口ヒロミ展の会場で絵屋楽団と即興のカルテットを披露してくれました。
●5月30日夜、絵屋ライブvol.1として同じ堀川久子さんが、小林寿一郎展会場で踊りました。絵屋楽団の演奏と小林さんの詩の朗読が流れるなか、土壁の前で動きを極度に抑えた1時間の舞踏は、盥の水の影とたわむれて静かに進行。絵屋が不思議な異空間になった時間でした。


   

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