2003年7月 | |
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2003年7月2日〜7月10日
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画廊の展示室で (写真/明星敏江) |
田部直枝(たべ なおえ) |
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さよならは決して言わない
1965年の秋の夜、新発田市のある小さな喫茶店にみどりちゃん(田部直枝氏次女、渡辺みどりさん)とコーヒーを飲んでいた。店の壁に小さな油絵がかかっていた。「あれ哲(佐藤哲三)の絵でない・・・」「あら、二瓶さん哲三の絵好きなの・・・」と吃驚した様な声で彼女が言った。「大好きだよ。特に柿の絵がいいね・・・」「哲三の絵なら、父のところに沢山あるよ」こんどはこっちが吃驚した。近日中に連れて行ってもらう約束をして別れた。彼女が大学を出て水原病院に勤めていた頃の話である。 厳格に育てられていたみどりちゃんを見ていたので、緊張して訪問した。ご挨拶をしてお顔を見たら、想像していたより老人に見えた。奥様もお元気でおられた。 話が始まったら、田部さんが若い頃、小生の父と一緒に短歌の勉強をしたことがあったので、私のことをよく知っていたという様な話になりすっかり気楽になってしまった。 いくらでも続けたそうな話をさえぎって、絵を見せてもらうことにした。 押入の戸を開けたら上下二段に小品が山ほどあった。一枚一枚見せてもらっていたら、みんな欲しくなってしまった。 この日以来、私は新発田へ行く度にお訪ねしては美味しいお茶を頂き、良い勉強をさせてもらい、個性豊かな人達とお仲間にさせてもらった。 20年ほど前のある日、二人で話をしていた時、突然、哲三の絶筆の色紙を指して「俺もそろそろ歳になったから、この色紙二瓶さんにやるからもらって下さい。あなたの家にあればもっと大勢の人に見てもらえるし、俺も一番安心していられる」と言う。いくら固辞してもどうにもならない決然とした語調だった。では私が老人になったらみどりちゃんにバトンタッチするということで話は終わった。考えてみたら私も丁度、当時の田部さんの年齢になってしまった。そろそろバトンタッチしなければならないと思っている。 40年という長い田部さんとのおつき合いの間、唯の一度も嫌な言葉も嫌な思いもしたことがなかった。何時でも優しくしていただいた。 3月4日。田部さんの葬儀の日。「田部さん。お元気ですか」と大倉宏さんの弔辞の冒頭の言葉に私はハッとした。田部さんは死んでなんかいない。絶対死んでなんかいない。貴男が一番好きだった哲三が「幾度でも会ひ度ひ心一ぱいで」と書いているではありませんか。何時何処でも会えるじゃありませんか。田部さんは私の頭の中にも、心の中にも死んではいない。(二瓶文和・出湯温泉・石水亭主人)
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2003年7月22日〜7月30日 |
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高橋俊明(たかはし としあき)
■1951年秋田県稲川町生まれ。77年、東京学芸大学大学院修士課程絵画講座終了。個展84−92年ときわ1画廊(東京・日本橋)、2002・03年K's Gallery(東京・銀座)ほか。84、86、87日本国際美術展、98年岡本太郎記念芸術大賞展、99、2001年NiCAF展などに出品。 ←2003年 水性ペイント、板 |
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高橋俊明氏は、ここ数年来、この青いシリーズを作り続けている。 角材を張り合わせて画面を作り、表面を焦がし、丸・三角・四角の穴を開けたり、表面を引っかいたりの加工をした後に青と黒の水性塗料をペイントする。そうした結構体力勝負の作業の結果である氏の作品であるが、「静謐―その彼方へ」という展覧会タイトルが、実にしっくりと似合う。 静かに作品と対面していると、深い神秘の森に迷い込んだ様な、幽玄な世界を感じることができる。あるいは、はるかな宇宙、夕暮れの海岸などを見つめているようでもあり、雄大な自然の広がりを感じることもできるだろう。ゆっくり作品たちと向かい合い、しばし、俗世間を忘れて、幽玄の世界に迷い込んでみてほしい。 (増田きよみ) |
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絵 屋 と ぴ っ く す
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