n e w s p a p e r
1987年8月4日 新潟日報 掲載

私の いま・表現・新潟

       新潟現代美術32人展から・1
 


霜鳥健二(「V・Sアート」メンバー、燕市)

 県内の現代美術作家たちによる「新潟現代美術32人展―いま・表現・新潟」展があす5日から9日まで、長岡市の長岡美術文化ホールで開かれる。この会場は、かつて日本の現代美術のメッカとして注目を浴びた長岡現代美術館の跡地である。栄光の“廃墟”に集まって、作家たちはいま何を思い、何を生み出そうとしているのか―。参加者の中から、その作品とともに語ってもらった。

 安心の時を過ごす安堵感は、人生の幸福追求の頂点。だれもが願うことだが、私にとっては、決して安心立命とはいかない。臆病ともとらえられてしまうが、世紀末的危ぐの気持ちが浮かんでしまう。平和の裏には戦争の恐怖が潜んでいるように、美しいものの中にも醜悪なものがあるように、やはり安堵感には浸れない。すべてのものに、「実」と「虚」が存在していると考える。相反するものが生まれようとする時、大きなエネルギーとなる。作品を創造する源は、この「反」の産み出すエネルギーがあればこそできるように思う。優しい美しさでは、表現することのできない形を見つけることこそ、原点ともいえる。
 私の作品の塊は、俗にいう内部からの生命感あふれた量とは違い、空間を取り込んだ虚の塊、すなわち負の量といえる。実存する塊に触れる喜びよりも、光を失った虚像を創造するほうが、よりエクスタシーを感じてしまう。興奮は欲望を助長し、次の制作へのパワーを産み出している。
 鉄を素材にする理由を時として問われる。彫刻は素材の発見と、質感の利用であるが、素材に頼り過ぎてはならない。鉄は錆る。その錆こそ、私の興味を引き付けて離さない素材としての鉄なのだ。錆には、進行する時の流れと、金属を冷たい無機物から開放するものがある。鉄が風化により変化する過程に、悠久の時の流れに感じてしまう。つまり錆は、時間を表現することのできる数少ない素材といえる。そして、鉄には優しい色、肌触りがある。石や木には天然の素材そのものの「もの」の温かさ、自然の恵みを感じることができるが、鉄には人の手を経た「情」を感じている。鉄を使うことも、粘土や石・木の自然物に対する「反」なのかもしれない。
 地方・新潟に対し、中央・東京がある。そこに「反」のエネルギーが生まれる言葉の響きがある。東京という存在を正面からとらえるためにも、新潟の必要性が生じてくる。「いま・表現・新潟」といううたい文句には、「反」という発想が少なからず存在していると思われる。「反」は僻み、嫉妬、妬みという言葉を内に秘めているが、それらすべてもやはり、エネルギーの源となるべきものだ。私はエネルギーをつくり出す言葉を、創造の第一歩として歓迎している。
 4年前からグループを結成し、県内のいろいろな会場で展覧会を開催している。県内で活躍している現代美術の作家たちや現代美術に興味を持っている人、反感を持っている人らと語り合っている。グループの名称は「V・Sアート」。VSは「versus=・・対」の意味。新潟という地の保守性、芸術の権威主義に問題提起をすべく、結成された。VSもやはり、「反」の思想であり、エネルギーがわき出る展覧会である。VSアートの活動が、県内の現代美術の作家たちに少なからず影響を与え、「新潟現代美術32人展」開催の一つのきっかけになったのではないかと思う。この展覧会は、虚空間の中に存在する、負の実像表現という自分自身のテーマを改めて考えさせる展覧会であると同時に、新潟全体の「反」のパワーを確かめる機会ともなっている。

「a virtual image」


私の いま・表現・新潟

新潟現代美術32人展から

霜鳥健二
数見利夫
大島彰
喜多村まこと
前山忠