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1987年8月8日 新潟日報 掲載

私の いま・表現・新潟

       新潟現代美術32人展から・5
 


前山忠(造形作家・無所属・中頸三和村)

 長岡現代美術館で作品を展示することは、一つの夢でさえあった。それが今回、「32人展」として実現することになったのはうれしい限りである。当時の長岡現代美術館そのままに展示できないのが残念ではあるが。
 今にして思うと、“裏日本”といわれ、地方であり田舎といわれた新潟(長岡)に、日本および世界の前衛美術が展示され、名だたる内外の評論家が論争に火花を散らした長岡現代美術館が出現したこと自体、一つの奇跡であった。当時学生だった私は、東京の美術館や画廊あるいは雑誌でしか見ることのできない作品を、新潟の地で目の当たりにしたときのショックと刺激ははかりしれない。
 こうした刺激が1967年に新潟現代美術家集団GUN(ガン)の結成を促したことは否定できない。もう中央、地方はない、自分のいるところから撃って出よう、そんな気持ちであった。GUNは、東京と長岡とを主要な表現の場としたわけであるが、さながら新潟から中央に殴り込みをかけるといった体であった。つまり、自分のいる新潟こそ中央だといった気負いがあったと思う。特に当時の美術界は、今以上に日展をはじめとする公募団体が支配的であり、中央集権化が激しかったから。
 今も自分が新潟の地に住み続け、ここで制作・表現活動をすることの中に、そうした中央―地方の構図に縛られたくない、生活を大事にし生活と結びついた表現をしたい、という思いがある。「自分のいりところをもって中央となす」という北川省一氏の言葉を肝に銘じて生きているつもりである。
 さて作品についてであるが、私はこの数年再び鏡を素材にして制作している。「再び」というのは、六十年代後半に初めて鏡の作品を発表してから、七十年代に入って十年くらいは石、布、紙、写真など即物的に使うことが多くなり、手作業の多い鏡の製作を全くやめてしまっていたからである。テーマも反安保、反戦、反軍、反天皇制など現実の政治的なものであった。そこには、自分の生活や政治闘争と不離一体のものとして表現行為があった。それは自己表現であり、アジテーションの場でもあった。だから作品というより、生きることと表現とが同じレベルのものとしてあった。
 しかし八十年代に入って、もっと人と作品とのかかわり、見る人の感性に訴える方向を重視するようになった。その時どういうわけか、かつて使った鏡に引かれていった。なぜなのかは自分でもよく説明できないが、ただ鏡の持つ性質である。他のものを映すことによって鏡たりえる非物質性、異空間への興味があったことだけは確かである。
 今回の作品は、人間のシルエットをとり入れたもので、鏡の裏からコンパスやカッターを使ってメッキを削り取ったものである。削り取ったところはただの透き通ったガラスになり、残った部分は鏡のままである。作品の前に立ったとき、鏡の抜ける空間とガラスの抜ける空間との微妙なズレが、見る者や周りの風景を映す中で発生する。説明してもなかなかイメージがわきにくいと思われる。ともかく会場で現物を見る、いや体験して頂くことが何よりであろう。

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私の いま・表現・新潟

新潟現代美術32人展から

霜鳥健二
数見利夫
大島彰
喜多村まこと
前山忠