n e w s p a p e r
1987年8月7日 新潟日報 掲載

私の いま・表現・新潟

       新潟現代美術32人展から・4
 


喜多村まこと(「V・Sアート」スーパー会員・北魚沼川口町)

 '70年代の若き革命家たちが、慣れた手つきでネクタイを緩め、赤ちょうちんで帰りの電車の時刻を気にしながら昔の武勇伝に花を咲かせていたころ、私は露地裏のアパートで音楽仲間と、マーチンとギブソンのギターの音色とその音楽が、国産のそれに比べどんなにすばらしいものか話し合っていた。そして二ール・ヤングの蓄のう症ぎみの声と、ブワブワハーモニカの音がいつも背景に流れていた。
 私にとって平和な二十代が訪れたある日、一枚のグラビアに目を射られた。
 それはヨガの行者のような風貌の男が、クジラ釣りの針(クジラは釣らないか?)のようなもので、手、足、わき腹等を、プスリプスリとひっかけ、その針をワイヤで体ごと空中につり下げているのである。
 本人は瞑想するかのごとき表情で、まるで空中で眠り込んでいるかのように私には見えた。私は友人と、これはビートルズの「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウイズ・ダイヤモンド」だ、などとひそかに興奮したのだった。
 やがてそれがパフォーマンスだったと知ったのは、その後しばらくしてからのことだった。そんな時を過ごした中でクラフトスクール時代の数年間、数多くの展覧会に刺激を受け、幾つかの公募展にも出品した。
 ファイン・アートに大きく傾倒したのはその後新潟(北魚沼であるが)に帰った二十代中ごろだった。十日町市のグループ「タスク」、長岡市のグループ「アベニュー」に参加。1984年から「V・Sアートアソシエーション」に参加し、最近は「メタファー」「1/1」「物品採取」のシリーズを手がけている。「V・Sアート」の信田俊郎氏も言っているが、全くルール無用のデスマッチプロレスのごとき現代美術のリングは、広く自由で過激であるとの言葉に、私自身大いに共感したい。
 そんな中で発表してきた今までの私の作品は、どちらかというと見る側に何かを訴えるべく制作されたそれらとは異なり、むしろ、一人の人間が、日常の中で、必然または偶然に直面する問題にどう対応し、またそれをどう乗り越えるかということの一つのプロセスの表われであり、だれもが経験していることそのものにほかならない。
 それは縦横無尽にめぐらされた通り道の中で、私自身が選択した一つの手段であり、作品はその道しるべということになろう。これからもそれは続き、私が消滅するとき、その道しるべが私にとっての墓標となるのであろう。
 現代美術が、方向性をもちながらも従来の規制を解き放しつつ進んでいる「無限定」から、さらに方向性すらない「無限」となるとき、中心も周辺もない実無限となったとき、現代美術をとり巻く環境は、無限の自由さのためにかえって規制されるという閉じられた世界を歩み始めることとなるようだ。そういう意味では、絶えずフットワークをきたえ、閉じられた「内」と「外」をいつでも自在に出入りしていたいものだ。「内」にも「外」にもとどまらずに。

「表状」


私の いま・表現・新潟

新潟現代美術32人展から

霜鳥健二
数見利夫
大島彰
喜多村まこと
前山忠