n e w s p a p e r
1987年8月5日 新潟日報 掲載

私の いま・表現・新潟

       新潟現代美術32人展から・2
 


数見利夫(無所属・三条市)

 大学生のころ、京都、奈良に惹かれて、友人たちとよく訪れた。何回目かに初めて訪れた龍安寺の石庭の印象は今も深く記憶に残っている。
 その時は、京都のお寺の庭を観ることを目的としていろいろなお寺を回り、最後に訪れたのが龍安寺であった。12月下旬の寒い日であった。正月が近いこともあって観光客もほとんどいない。料金所を通って暗い廊下を左に曲がると真っ白な庭が見えた。
 ピンと張りつめた空気、ひっそりと静まりかえった廊下に立って初めて観る石庭、その時の感動は今も忘れない。相阿弥作と伝えられるこの庭は、これまで観てきた庭とは何かが違うと直感できた。友人たちもおそらく同じ思いであったのであろう。言葉もなく、1時間近く廊下に立ち、石庭を観ていた。
 この石庭での貴重な体験は、私にいろいろなことを感じさせ、教えてくれた。できれば自分の仕事もこの石庭のようでありたいと思った。つまらない作為や意識を超えたところで仕事をしたい、そう考えた。
 いま、私の部屋の壁には、描きかけのキャンバスやパネルが所狭しと掛かっている。毎日、それらを眺めながら、キャンバスやパネルが自然に呼びかけてくるのを待っている。お呼びのあったときが、仕事の始まりだ。
 制作にあたっては、ほとんど計画的に仕事をすることがない。むしろ、計画的になることを恐れている。計画を立てるということは、結果を先に出し、作為的になる恐れがあるからだ。また自分自身を枠にはめることにもなると考える。(ときには、枠をはめて仕事をしたくなることもあるが…)
 だから、描き始めも、デッサンを重ね、下絵をつくるということもなく、いきなりキャンバスに思いのまま描き出す。感性にまかせて、色彩を塗ってゆく。描きながら、塗りながら、イメージが、豊かになってくるという感じである。
 「ああでもない」「こうでもない」と色や形が動いてゆくなかで少しずつイメージがまとまってくる。最終的にはどういう形や色が残るのか途中の段階では全く分からない。イメージがかなりまとまってくると、少し意識的に仕事を進めてゆくことになるので、全体の感じがつかめるようになる。色の深さや響き合いなど自分の納得のゆくまで絵の具を塗っていく。
 さて、順調に仕事が進んでいるときはよいが、ハタと手が止まるときがある。そういうときは仕事をやめ、壁に戻して、横にしたり、さかさにしたりして眺める。手を休め、コーヒーでも飲みながら壁の作品を見ていると、今度は、別のキャンバスやパネルからお呼びがかかる。そうすると、また仕事の始まり。
 毎日がこの繰り返しである。この繰り返しの仕事の中で、常に新しい試みを探り、自己を新たな段階へと引き上げようと務めている。
 ささやかな自己の成長を期待して。

「散歩」


私の いま・表現・新潟

新潟現代美術32人展から

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