2003年1月 | |
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2002年12月22日〜2003年1月10日 |
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いまきみち(今木 道) ←「1パイの水〈雲〉」1999年 木版画 12.2×12.4cm |
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一昨年はL-REX展、昨年はめでたい展とお正月はにぎやかな企画が続いたが、今年は一転して、静かなオープニング。 新潟は水の都だそうだ。八千八川と言われた無数の堀を埋めつくして、それもないだろうとの声もある。堀は消えたが、それでもこの季節には水の気配(湿気とも言う)が町を包む。すっぽりと。 雪など(最近はみぞれや雨が多い)のふりしきる夕暮れ。窓の外を見ると、空気が深い青に染まり、世界がコップの水の底に沈んだよう。冷え冷えして、どこか心地よい。 すべてが動きを止めた場所で、雪や雨だけが動いている。 そんなコップの底に、一杯の水をたたえた、いまきさんのコップの絵たちを掛ける。静けさに静けさが降りつもって、夢が目をさますだろうか。 そんな初夢の戸をそっと開けて、お迎えします。 (大倉 宏) |
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2003年1月12日〜1月20日 |
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広田郁世(ひろた いくよ)
■1963年生まれ。87年大阪芸大日本画専攻(科)修了。89年文化庁芸術家国内研修員。86〜91年創画展に出品。以後グループ展、個展で発表。87〜95年アマチュア劇団の制作・舞台美術等担当。95年〜ニッチ人形芝居の舞台監督。挿絵、装丁の仕事多数。趣味は熱気球、動植物の観察。富山県射水郡大門町在住(00年同町生涯学習推進功労賞受賞)。 ←「町の空」 2002年 岩絵の具、麻紙 |
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黒ずんだ家並みから、蜘蛛の巣のような電線越しに、冬の雲に塗り込められた空を見上げる気分は、素敵とはいえない。広田さんの風景は例えばそんな気分のなかに、黙って私をすわらせる。 すわってみるとそこは、変わらず素敵ではないまま、でもどこか大切な、かけがえのない場所であると感じられてくる。そこがなければ、私が私でなくなってしまうような、そういう場所。 はてのない灰色の平原に迷い込んでしまったような、北陸(日本海側)の冬の時間が、不思議なほどやさしい目で掬われている。 富山と新潟は、近いようで遠い。同じ気候風土なのに、心理的に隔てられた感じは歴史的なものだろうか。広田さんの絵はまるで新潟そのもの。それなのに、こういう絵に新潟で会った記憶がないのは、本当になぜだろう。 (大倉 宏) |
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2003年1月22日〜1月30日
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木下 晋(きのした すすむ) ■1947年富山市生まれ。63年自由美術家協会展(東京都美術館)、83年現代のリアリズム展(埼玉県立近代美術館)、94年個展(KEENギャラリー、ニューヨーク)、97年個展(池田20世紀美術館、静岡)。ほか69年以降各地で60回近くの個展を開く。現在東京大学工学部講師、武蔵野美術大学講師。 ←「100年の瞑想」2000年 鉛筆、紙 190×100cm ◆『ペンシルワーク 生の深い淵から』 |
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木下さんの絵を見て、誰もが度肝を抜かれるが、その衝撃は写真のような(スーパーリアルな)描写力からくると思う人があるかも知れない。 102歳の越後瞽女小林ハルさんを描いたシリーズなどでは、実際に写真をベースにはしているらしい。しかし木下さんの、目前の人をこんなに見つくし、書き尽くそうとする凄まじいエネルギーは、うまく見えないこと、描けないことに発しているのではないか、と私はいつも感じる。うまく見える人、描けてしまう人は、少なくともこんなふうには人を絶対に描かない。 多くの人にできることが、ある人に、できない。障害、と言うはやすいが、それは時に人の心に食い入り、締め付け、焼き焦がし、支えたりもする。次の世は虫になっても目明きに生まれたいと言うハルさんの人生に、共振するなにかが、木下さんにはあるのだと思う。(大倉 宏) |
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絵 屋 便 だ よ り
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うかうかしている間に日々は過ぎ去り、気がつけば世間は新しい年にむけカウントダウン。お年玉ももらえなくなってはや幾年月、新年だからといって特別なにかがおこるわけでもありませんが、カレンダーをかけかえて少々あらたまった気分になるのはなかなかよいものです。それをサカナに宴会に興ずるという楽しみもありますしね。 |
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