長岡市無形文化財「寺泊山田の曲物」足立茂久商店

〈新潟絵屋+吉川酒店 2会場特別展示販売〉

SHOP

5/12[日]― 6/13[木]新潟絵屋 ショップスペース

5/11[土]― 6/13[木]地酒防衛軍 吉川酒店(こんぴら通り)
新潟市中央区西厩島町2346
9:00~20:00(土曜10:00~19:00) 定休日:日曜定休、5/6休

 日本海に面した寺泊山田集落で、江戸時代から続く県内唯一の篩屋(ふるいや)として、裏ごし、蒸籠など曲物を製造する足立茂久商店。このたび、新潟絵屋のショップスペースでは11代目足立照久さんが創作した曲物製品を、また近隣の地酒防衛軍・吉川酒店さんでは、匠の技が結集した「ウルトラ警備隊エンブレム オブジェ」を展示・受注販売いたします。2会場で足立さんの新しい曲物世界をお楽しみください。

協力:新潟の伝統工芸と繋がる タクミクラフト www.takumicraft.com

足立茂久商店

PHOTO(上): ウルトラセブンシリーズ第3弾「ウルトラ警備隊エンブレム オブジェ」
PHOTO(下): 11代目 足立照久 足立茂久商店|寺泊山田の曲げ物

Tango写真展『4718/R』

5/17[金]―30[木]

niigata eya exhibition 574

 Tangoさんが撮るのは一見、ごくごく当たり前の『日常』にある風景です。そこには劇的なものはなく、見慣れたものが写っているはずなのになぜか観るものの印象に深く残り、心の中に留まります。なんの変哲も無い日常の中には、確かにその時にしかない特別なものが含まれていて、作家はそれを見出し鋭敏な感覚で切り取ります。
 今回展示を行う作品では、二つの視点が並べられます。誰かと誰かが一緒にいるとき視点は決して重なることはありません。それでも、その時は同じ場所にいてどこかは重なっていたものもある筈――それが何だったかをTangoさん独自の感性で捉えようとする「一緒にいた人」と共有された「時間」と「場所」に取り組んだ写真展となります。(企画者:Bricole 桾沢和典・桾沢厚子)

Tango
1980年生まれ。新潟県在住。シリーズで継続しているZINE「e.o.a」と、グループで発行している「LIGHT」の製作を中心に活動している。
http://hachigatsunoowari.com

作家在廊予定日:5/19・22

Tango写真展

Tango写真展

PHOTO(上から): 作品:「NAGISA」
「4718」
「I Hope Not」


関連イベント

ギャラリートーク

5/19[日]18:00―19:00

会場:新潟絵屋 展示室

500円(要申込/新潟絵屋へ info@niigata-eya.jp)
ブリコール桾沢さんを聞き手に、Tangoさんのお話を伺います。
現在、本展覧会のための特別書き下ろし「インタビュー紙」を、ブリコールさんは製作中とのこと。そちらもどうぞお楽しみに…。

若槻菊枝蔵の 「峰村リツ子の裸婦」展

5/2[木]―10[金]

niigata eya exhibition 573

 若槻菊枝さんの新潟絵屋での個展は2007年6月。上大川前通りでのリニューアルオープン2つ目の企画展だった。真っ赤な服を来て車椅子で画廊にこられた菊枝さんの姿を今も思い出す。菊枝さんは3年後に94歳で亡くなった。夫の登美雄さんから、菊枝さんが持っていた峰村リツ子さんの絵を、以前「峰村リツ子展」を開いていた(2013年 砂丘館同時期開催)絵屋に寄贈したいとお申し出いただいた。
 菊枝さんと峰村さんのつながりが意外だったけれど、なんと峰村さんは菊枝さんの肖像も描いていたのだった。峰村さんが晩年個展をしていた現代画廊に登美雄さんはよく通ったという。新潟から東京に行き、それぞれ独自の人生を歩いたふたりが出会っていたということ、菊枝さん所蔵の絵が、菊枝像以外すべて裸婦であることが面白い。肖像、風景、裸婦は峰村リツ子の3大モチーフだが、なんと言っても裸婦の魅力が突出していると私は思っている。菊枝さんと意見が一致した。絵のセレクトがまた実に心憎い。何もまとわない女たちのなんとも明るく屈託ない体の表情に、空気に、菊枝・リツ子の自由な人生が重なって見える。 (企画者:大倉宏)

峰村リツ子(みねむら りつこ)
1907年新潟市の沼垂に生まれる。生家は味噌の醸造業。10代後半に東京へ行き、太平洋美術研究所で油絵を学ぶ。野口弥太郎、里見勝蔵、児島善三郎らの指導を受ける。女性の油絵画家の草分けの一人。戦前は1930年協会展、二科展、独立美術協会に出品。34年三岸節子、桜井浜江、佐州敏子らとグループ女艸会を結成。戦後は女流画家協会、自由美術家協会等で発表後、70歳を越えてからは主に個展で発表。洲之内徹のエッセイ「気まぐれ美術館」でもしばしば紹介された。93年朝日ギャラリーで自薦展を開催。95年没。

峰村リツ子

峰村リツ子

PHOTO(上から): 「マダム・ノアノア」 制作年不明 油彩/キャンバス
100.3×80.0cm(自由美術展出品作)
制作年不明 油彩/キャンバス 41.0×31.8cm
制作年不明 油彩/キャンバス 22.7×15.8cm


関連販売物
峰村リツ子 作品集
『峰村リツ子作品集』
1993年刊行/完売

若槻菊枝 女の一生
『若槻菊枝 女の一生 新潟、新宿ノアノアから水俣へ』
奥田みのり・著(熊本日日新聞社)/税込1,620円

若槻菊枝(わかつき きくえ)
1916年新潟市(旧大形村)生まれ。26年木崎村無産農民小学校に入学するが1日だけの登校。35年上京。50年新宿にバー「ノアノア」を開店。画家、彫刻家の客が多く、自身も制作を開始。52年笠置季男氏(彫刻)の指導を得る。55年二科展彫刻部門、57年絵画部門へ出品、その後常連となる。98年に体調を崩すまで創作活動を続け、個展開催多数。日本美術家連盟会員。2010年没。

新潟の画家たち[後期] 熊谷喜代治展

6/17[月]―30[日]

vol.576

PHOTO(右): 熊谷喜代治 「赤い服の女」 ガラス絵 23.0×16.0cm

 熊谷喜代治は、自宅で絵を教えていた。そこから巣立った新潟の画家も多い。4月の「没後一年 長谷川徹展」には、彼が熊谷の家で描いていた小学生時代の絵も展示した。先生(熊谷)をモデルにしたらしいよく描きこまれた人物像の下に、丁寧に書かれた評があった。絵への情熱はこんなふうに伝えられていったのではないか。戦前の新潟県展に反旗を振りかざし独自の公募展を主催、「デッサンの歌」を歌いながら市内を行進したというエピソードもある。教育にも制作にも熱い人だったのだ。
 その熊谷の残された絵の本領は、ガラス絵にある。と書くと、いまは亡き画家は不満に思うかもしれない。渾身の力で取り組みながらも、重さを拭いきれなかった油彩画より、自在で、いかにものびのびした筆致のガラス絵に惹かれる私がいる。
 今回の準備中に、一点ガラス絵と見紛う、魅力的な油彩の裸婦像があった。車に運びいれてふと裏を見ると「絶筆」と記されていた。ガラス絵と油彩画がこんなふうに溶け合ったところで、画家は逝ったのだった。 (企画:大倉 宏・小見秀男)

熊谷喜代治(くまがい きよじ)
1912年中蒲原郡石山村(現新潟市)生まれ。旧姓加無木。35年新潟師範学校卒。在学中は諸橋政範の指導を受ける。小柳俊郎らと新潟油彩画協会を結成。41年結婚し熊谷姓に。戦後児童画教室を開く。49年頃からガラス絵を制作。70年小学校12年、中学校に23年勤務し退職。73年小田急ハルクでガラス絵展。81年富川潤一らと無限会結成。88年没。89年「新潟の絵画100年展」(新潟市美術館)に「赤いマフラーの女」が出品される(現在同館に収蔵)。90年遺作画集刊行、新潟伊勢丹で遺作展開催。

熊谷喜代治「横たわれる裸婦」」
 熊谷喜代治

PHOTO(上):「横たわれる裸婦(絶筆)」 1987年 油彩/キャンバス 28.0×33.5cm
PHOTO(下): 題不詳(花) ガラス絵 23.0×16.0cm

書 沢村澄子 -うたう-

4/17[水]―30[火]

vol.572

作家在廊予定日:4/17~22

 歌う 唄う 謳う 詠う——。喉から声を発することのみならず、詩歌をつくることもまた日本の言葉では「うたう」と表現されてきた。原初の表現はみな「うたう」。ならば沢村澄子の書作品もまた、墨をもって“うたって”いるのではないか。心体のうちから湧き起こる力をそのまま紙に焼きつけたような墨。ある人はそれを観て優しいと言い、また別な人は
激しいと言う。彼女の書は観る者の精神を写す鏡でもあるのだ。
 昨年、彼女は急な病に倒れた。しかし何とかそこから立ち上がった。病を得たことで、そこから蘇ったことで、書は、どう変わったのだろう。何を失い、何を得たのだろう。沢村澄子が絵屋でうたう。(企画 田代早苗)

沢村澄子(さらむら すみこ)
1962年大阪市生まれ。新潟大学書道科卒業。新潟大学教育学部特別教員養成課程書道科在学中から個展を中心とした作品発表を開始。浅草・柳嶋妙見山法性寺の襖28面を3年がかりで2016年に完成させるなど、建築に関わる制作、野外展などにも書の可能性を追求している。国内外でのワークショップやパフォーマンス、他ジャンルとのコラボレーションなど、書家としては型破りな活動を評価され、2001年度には岩手県美術選奨を書の分野から初めて受賞する。書を「書くこと(Writing)」と定義。「描かないこと(Not drawing)」で自作と絵画を分別する。

PHOTO(上): 「尋花」2019年 33.5×24.5㎝

沢村澄子—うたう—

「いろはうた」 2019年

沢村澄子_春

「春」2019年 24.0×33.5㎝

沢村澄子_花無心

「花無心」2019年 28.0×23.4㎝

沢村澄子_あさきゆめみし

「あさきゆめみし」2019年 33.5×24.0㎝


関連イベント

パフォーマンス+ギャラリートーク

21[日]18:00〜
展示室にて/トーク聞き手・田代早苗/1,000円/要予約(新潟絵屋へ)
沢村澄子さんの書はどのように生まれるのか、制作の場にお立ち合いいただき、終了後は展覧会企画者を聞き手に作家のお話を伺います。

没後1年 長谷川 徹展

4/2[火]―10[水]

vol.571

 去年の4月3日に亡くなった長谷川徹の絵を、お借りしに学校町の故人宅に行き、同行者に作品を運び出してもらって、駐車場に車をとりに行った。戻ると、家の下の塀に絵がたてかけられていた。新潟の冬らしい、どんよりした、少し明るくもある曇り空から滲み出た光が、画面を洗っていた。ほんの一瞬だけれど、絵がゆっくり呼吸しているように見えた。静かに、ほそく尾を引くようにこの世から去った長谷川にとって、絵は、呼吸だったのだと感じる。感じた。ほんの一瞬だが、息を吸って、吐く、彼の身体が、自分のなかに見えた。呼吸としてこの世に差し出された絵を、もう一度呼吸に返すことが、残された私たちが絵を見る、ということなのだろう。一周忌を期に、長谷川の絵を並べ、ない、けれどもある、ひとりを感じる時間を共有したい。
(企画者・文:大倉宏/共同企画者:井上美雪)

長谷川 徹(はせがわ とおる)
1948年新潟市生まれ。69年武蔵野美術大学油絵科中退。以後新潟で創作活動に入る。78~2001年絵画研究所アート・ノバを主宰。92・94年安井賞候補。96年感動創造美術展グランプリ受賞。主な個展は、77~01年アトリエ我廊、83・86年羊画廊、94・03・13年たけうち画廊、04・06年楓画廊、05年炎舎、03・10~16年新潟絵屋、13年蔵織(たけうち画廊・新潟絵屋・蔵織 3会場同時開催および画集刊行)、16年ギャラリーみつけなど。18年4月蔵織にて長谷川貞子との二人展を開催。


長谷川 徹

PHOTO(上): 「空き地」 2019年 油彩・アクリル/キャンバス53.2×45.8cm

長谷川徹

「WORKS」 2006年

長谷川 徹

「Muse」 制作年不明 アクリル/パネル 73.0×51.5cm

長谷川 徹

タイトル・制作年不明 油彩/キャンバス 53.2×45.8cm

長谷川 徹

「ヴィシュヌ」 2006年 油彩・アクリル・鉛筆・テンペラ/キャンバス 45.8×53.2cm


長谷川徹さんの思い出をお寄せいただきました。


「長谷川徹画家との思い出」
 今回、絵屋便4月号をいただき長谷川徹さんが亡くなったこと 知らずにいたのでショクを受けました。
私が徹さんの絵を知ったのは、2013絵屋で徹さんも在廊されていて魅力ある力強い絵に引きこまれ徹さんにも絵にもすぐファンになりました。勿論3会場を回り、その後ギャラリーみつけにも行きました。
 徹さんのTシャツ、ロックなパワーを感じ素材がスポーツもできるタイプなので色々なシーンで着用させていただいています。
東京で暮らす息子の所に着て行きましたら「そのTシャツカッコイイね 頂戴」というのです。私はお気に入りだから嫌だったのですが、この作品の良さを分かってくれたことが嬉しくてあげました。でも、やっぱり欲しくて絵屋さんに取寄せていただき また着て出掛けることができて嬉しいです。「ステキなTシャツですね」と、質問を受けることもあります。
 「没後1年 長谷川徹展 」心して拝見させていただきます。ありがとうございました。
(清水明子)


「長谷川先生の思い出」
 35年前に美大受験生として初めて先生にお会いしました。当時は先生に私が描いてる石こうデッサンに「この絵なじら」「どうせばいん」て言い方をしてかなりイカれた受験生でした。こんなイカれた奴を先生はまともに相手してました。そして私は奇跡的に武蔵美彫刻科に合格出来ました。入学してからも盆と正月は必ず会いに行ってその半年間見てきた物、感じたもの、考えたことを先生ぶっつけてました。その先生のリアクションは今の自分の教養に大きく影響してます。それは社会人になっても続き私は「先生は何で俺みてえなバカヤロ相手にしてくれるん」て聞いたら「オメみてえなバカがかわいいんだ」て笑って言ってました。「俺かわいくねえよ」って。
 卒業してマネキン会社に就職して原型作家になって人体研究してたころノバに先生の鉛筆の裸婦デッサンがあり「先生!これくれや」「なにゆうてる」「いいねっか、くれや」先生は紙袋出してきてそのデッサン入れながら「なんでオメにやらんばねんだ」って。そのあと二人で飲みに行くエレベターのなかでもブツブツ言うから「じゃいらね」「ウルセぇもって帰れ!」その日はさすがに会話の半分は敬語でした。
 この春うちの次女が美大生になります。先生には感謝しかありません。
(長谷川先生の弟子)


2-3年前来た時(2016年)絵屋で個展をした時にお会いして、具合はどうですか?とうかがったところ、だいじょうぶという返事でした。
先日、案内で亡くなられたとの報に接し〝やっぱり〟という思いがいたしました。
ご冥福をお祈りいたします。
2019.4.2 小柳幹夫


 私にとっての長谷川徹氏は人生に決定的な影響をもたらした生粋の芸術家—と考えています。先生との出会いがなければ私の人生は随分と寂しくつまらないものになっていた。
 二十歳の時、下宿近くの居酒屋「亀満」の女将に紹介された事が始まりでした。教室に六年間通い、メジチ像の木炭デッサンを四年かけ一枚を仕上げ、本来ならば先生が使うはずのクレサンキャンパスをいただいて静物画に挑戦しました。制作より2階の居間で酒を飲みながら話した事が懐かしく想い出されます。
 今回送られたリーフレットに掲載された四作品を見ました。先生はどの時代においても現状に安住することなく事象と対峙し自分の中で折り合いをつけようと葛藤する姿が垣間見え、鼓動が息遣いています。作品が存在する限りその脈は動き続けると確信しています。
 長谷川夫妻には大変お世話になりました。ありがとうございます。
(加藤弘直)


 今日、恩師 長谷川徹 の没後1周年の記念展の展覧会を見せていただきました。実は「長谷川徹氏との思い出は?」と思いながらここ数か月過ごしてきていました。受験でノバのお世話になった1986年。地元の大学に進学したこともあり、自分の作品制作のかたわらに常に寄り添っていただいたような気がしています。「一緒にNYに行ったな。」とか、「酔っぱらって先生の個展で作品買っちゃったな。」とか、、、、。具体的にはいろいろなことがあります。が、ともあれ現在私のアトリエには長谷川徹の小品が2点 、居間には30号位の作品が2点。常にここ20年みつめながら、ほぼ空気のように、日常の生活の中であなたの作品を私の脊髄の中に封じ込めようとするように生き、制作し、発表してきたような気がします。とぎれとぎれではありますが、あなたの言葉が忘れられません。2007年長岡の近代美術館で開催した私の回顧展に友人に連れられて、お越しいただきました。「田中の今回の個展を見なければいけないと思い、長谷川徹を連れてきた。」とか言われながらもかけていただいた言葉は忘れません。あなたが時を同じくして抽象表現に進んでいったことが偶然なのか、必然なのか。お話する機会がなかったのは残念なのですが、多分「そうか。」「そう思っていたのか。」という言葉が返ってきそうな気がします。これからも私自身の創作、表現、発表の原点があなたであることは変わりません。今でも、これからも教え子たちに伝え続ける「なぜ、何?」を思い、模索し続けることが自分ができるコトゴトと思っています。それではまた。
(田中幸男)


 はじめて目にした長谷川徹さんの作品は、繊細な樹木のデッサンだった。クリスタルガラスのような緊張感をともなった美しさ。ちょっとでも触れたら割ってしまいそうな。汚してしまいそうな。
 作品はやがて抽象となり、白い画面に放たれたブルー或いはオリーブグリーンの点。そのただならぬ緊張感はクリスタルガラス。やはり美しかった。
 いつか作品は変わっていった。出口を求めて咆哮する獣のように、画面は荒ぶる。クリスタルガラスは砕け、曇る。そしてもう長谷川さんの新作を観ることはかなわなくなった。
 遺作展の中に幻影のように植物を描いた作品が。はじめてみた時の残像のように。長谷川さんの中にずっとこの植物の映像は埋み火にようにあり続けたのだろうか。これをみているとしみじみ思う。
 ああ、長谷川さんはもうこの世にはいないんだな。
2019.4.4 田代早苗


未だ新潟の地で漂流を続けている私が、
長谷川先生の訃報を知ったのは
ある作品展の鑑賞でお邪魔していた楓画廊様にて。
既に現し世から旅立たれ、
半年も過ぎた、晩秋間近のことでした。
若かりし頃の、僅か一年弱ではありましたが、
先生が主宰されていたアート・ノバは
まだ関屋の古ぼけたビルの一画にあり、
悪友に騙されて(?)なんとなく通うようになったものの
真面目にデッサンをするでもなくたむろってばかりで
たまにイラストのようなものを描いては
「軽いねぇ」と一笑に付され
それでも鼻つまみ者同然の不良生徒を
広い心でご指導くださったことが
昨日のように思い出されます。
亀萬でご馳走(※という名のたかり)になった時も、
出世払い、と言いつつ
結局何のお返しすら出来ませんでした。
私も終活を見据える歳となり、
遠くないうちにお逢いするとは思いますが
その時は是非とも
「で…、お前誰だったっけ?」
と、笑いながらツッコんでくださいませ。
(Chieri)


「長谷川徹さんの想い出」
 青春の刻 本心で語り合える貴兄に出会ったことはしあわせでした。
 思い出は筆舌につくし難い。
 貴兄の旅立ちのときお顔を拝し涙が止まりませんでした。
 友でいてくれてありがとう。
 今日我が家の梅の木に鶯、頬白、雀が同時に止った。鳥となって遊びに来たか。
 平成31年4月4日
 徹さんへ
 渡邊博市


「長谷川徹さんの思い出」
長谷川さんの絵が大好きです。
わが家では新年になると「ばら」(水彩、2007年)を飾り、春になると「works」(油彩、2004年)夏になると「works」(アクリル、2014年)、冬が近づくと「デジャブ」(油彩、制作年不明)を飾ります。Worksシリーズは他に何点かあり、時々掛けかえています。何年前か忘れましたが、妻が関屋のアートノバに絵を習いに行き始めたころから、毎年のように長谷川さんの個展を拝見して来ました。おそらく、心の中で深く深く、考え、思い、悩み、苦しみ、そしてその結論として一瞬の筆先をキャンバスに置く…その潔さに魅かれます。長谷川さんの絵を前にすると「美しさとは何か」を考えてしまいます。良くわかりません。私はその思索を楽しみます。
妻は亡くなる直前、長谷川さんの個展が開催されていた絵屋さんに病床から絵を注文しました。「works」(アクリル、2015年)です。妻は病院からの一時帰宅でも画室にこもり絵を描いていました。「works 2015」の青の絵を静かに見つめていました。
長谷川先生有難うございました。妻と共に。
2019.4.5
大澤道義 


「長谷川徹さんの思い出」
 初めて長谷川徹さんにお会いしたのは、僕が勤めていた白山浦に在った美術専門学校の夏期講習会講師として来て頂いた時の事。昭和53、4年頃だったと思う。凄くデッサンの上手い人という印象。飄々と教室に入ってこられ、どういう訳か、必ずアンドリュー・ワイエスの画集(たぶん1974年東京国立近代美術館で開催されたワイエス展のカタログ)を携帯されていた。「これがいーんだよなーっ!これがーっ!」って、英国の俳優のような低くて張りのある渋い声で、受験生に楽しそうにページを指し示してお話されていた。助手の僕にも気さくに話を振ってくれた。本当に絵が好きで描く事が好きなんだなーと思った。
 それからずっと後、もっと親しくなってから。何時の何処の会場だったか忘れたが、長谷川さんのドローイング作品の中にグリューネ・ヴァルトの磔刑図が引用されていて、おやっと思った事があった。僕も又あの磔刑図を含む多翼式祭壇画に魅せられていて、なんだか異郷で同胞と遭った様な気分だった。又「故宮博物館に行って宋元画を観て来ようぜ」と誘われた事もある。その時は絵画における線の重要性について議論をしていた。
 東中通り界隈で呑みながら画論を拝聴していた時には、ダ・ヴィンチVSミケランジェロだけではない。小林古径VS土田麦僊とか佐藤哲三VS布川勝三なんて面白い話が続々と出てきた、洋の東西、古代と現代、都市と辺境、骨董と現代美術。一視同仁。話の端々に古典についての造詣の深さと思考の柔軟さが感じられ、会話が楽しく弾んだ。もちろん彼は真正の画家として、画材や画技の研究に熱心で研鑽を積んでいた。本当に色々教えて頂きました。
 病気をされた後、平成23(2011年)の絵屋での長谷川徹展。僕はその震える鉛筆線に息を呑んだ。徹さん、これは、もはや、絵という……ものぢゃ無いよ。
 誰もいない会場で僕は呻く。カリ・カリ・カリ・カリと、自分の内部に刻み込まれていく生の痕跡……その痛みに耐えるしか無かった。今も……耐えるしか無い。
平成31年4月5日脱稿 
彫刻家 星野健司


 美大を受験するため高校2、3年の頃にノバで長谷川先生に絵を教えていただきました。当時通っていた生徒達にコンポジションの課題を出されていた時期がありました。黒い線を何本か使って画面構成するといった内容で、最初一体どう描いたら良いのか全く分からず困っていた私に、鉛筆で盆栽の細密デッサンを描かれていた先生が「こういった絵も抽象も、やろうとしていることは一緒なんだよ」と教えてくださいました。その後半年ほど続いたコンポジションの課題も続けて行くうちに、先生の言われていた言葉の意味がだんだん何となく理解できるようになっていきました。
 社会人となり何年か後に新潟に戻って来てから先生の作品を久し振りに拝見した時に、以前の細密デッサンからは “ま反対”の抽象画に作風が変化していましたが、私にとっては“何かずっと繋がっているんだろうな”と、とても自然なことのように受けとめられました。その後毎回拝見する度にどんどんシンプルになっていく抽象作品にこの先一体どんな所に向かって行くのだろうか?と思っていましたが、昨年突然の訃報が。
 先生はもっとどんな作品を描きたかったのだろうか?と思いながら伺った昨年の二人展、最後に描かれたと思われる作品群は殆ど動きのなくなった物体?から、ゆるくとかれた絵の具液の重力で何本もの青い筋が下に流れ落ちていました。その筋がずっと地面までも流れ落ちているように見えて、その流れ落ちた後は土に還っていくんだろうか?と、そんな風に思いながら作品を拝見していたら、最後に自然の力(重力)に委ね完成となったこれらの作品は先生にとっての作品の最終形なのか?描き切って逝かれたのかもしれない、そんな風に感じさせられました。
 最後までご自身の人生を作品制作に全てかけて生き抜かれた姿は本当に凄かったと思います。これまで色々なことを教えて頂き今は先生への感謝の気持ちでいっぱいです、ありがとうございました。そして長年先生をずっと支え続けてこられた奥様の頑張りが本当に凄かったです。(現在も進行形)現在体調をくずされて療養中でいらっしゃいますが、一日も早くお元気になられますようお祈りいたしております。
(山田小百合)


 長谷川徹さんには、今まで数回お会いした事がありましたが、面と向かって“絵”の話をしたことはありませんでした。
 2012年10月、私の息子が縁あって、7年程勤務した東京から新潟で鍼灸院をオープンしました。その時、受付の白い壁に徹さんの「WORKS」シリーズの一枚を飾りました。その時々に、その絵は、いろんな風に見えました…。開院してから6年半が過ぎ、今年閉院。4月から再び東京で勤務しながら、手技の道を極めてゆくことになりました。一人で経営してきた体験が、今後生かされたらいいです。
 ずっとお守りのように絵を飾っていて、見えない力で導かれているような、助けられているような感じがしています。貞子さん、いろいろありがとうございました。
2019.4.8
丸山優子 


 いつもおしゃれでモダンでした。一緒に飲んだり、夫が絵を購入した時それ以上の作品がおまけで付いてきたり、「君は田中幸男と結婚するべきだ」と先生に言われたから、多分結婚しました。ギャラリーみつけでお会いした時は本当に嬉しかった。夫はずっとあなたを追い求めていくのだと思います。
(小沼智恵利)


長谷川徹さんとの思い出を募集

本展開催にあたり、長谷川徹さんとの思い出を募集します。お寄せいただいた原稿は会期中に会場に掲示し、新潟絵屋のホームページでも紹介させていただきます。

▶︎文字数:400字程度
メール:info@niigata-eya.jp
郵送、または画廊でも直接受け付けます。

会期中随時受け付け、会場を更新していきます。お寄せいただいた原稿は、最終的に遺族にお渡しします。